「あなたは救われる」聞いても、「別に必要ありません。」という人もいます。そこそこ楽しく生きているので、わざわざ宗教を信じなくても大丈夫、という気持ちです。ところが聖書は大丈夫じゃないことを警告します。神の怒りと裁きはあり、その裁きは恐ろしいものです。神の裁きを聖書は「憤りのぶどう酒の杯を飲ませる」と表現します。飲まされて狂ったようになるほど苦しむ表現です。「救い」とは「神の怒りからの救い」です。
(15-18)
まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」
神様の怒りに会う人たちの順番があります。まず神様の民であり愛する子どもたち(エルサレムの人たち)です。
(17-18)
そこで、私は主の御手からその杯を受け取り、主が私を遣わされたすべての国々の民に飲ませた。
まず、エルサレムとユダの町々とその王たち、高官たちに。彼らを今日のように廃墟とし、恐怖のもと、嘲りとののしりの的とするためである。
(29)
見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか。免れることはできない。わたしがこの地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ──万軍の主のことば。』
最初に神の家であるエルサレムの人たちから裁きが始まり、次に世界中の人たちが神様の裁きと怒りに会います。聖書は神の裁きに会う国々のリストが続きます。
(19-26)
また、エジプトの王ファラオと、その家来たち、首長たち、そのすべての民、すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち、すなわちアシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者たち、(…中略…)アラビアのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たち、(…中略…)近い者も遠い者も一人ひとり、地の面のすべての王国である。そして、彼らの後でバビロンの王が飲む。
救いとは神の怒りからの救いです。神様の怒りと裁きはあります。人間全てに救いが必要です。この神の怒りを身代わりに受けてくださったのがキリストです。聖書はキリストの血によって僕らが義(正しい)と認められ、神様の怒りかr救われると言います。
(ローマ5:8-9)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
(ヨハネ 3:17-18)
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。
イエス様が裁きを受けてくださり、それによって赦され救われるのが「福音」です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言います。(使徒4.12)裁きは神の家から始まることは新約聖書にも書かれています。教会にカタチばかり所属することが救いではなく、救いは福音を信じることです。福音とはイエス様が自分のその身代わりに裁かれてくださったことです。
(1ペテロ4.17-18)
さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
人類全てに救いが必要です。神の怒りからの救いです。
(30-33)
あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して言え。『主は高い所からほえ、聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって猛々しくほえ、ぶどう踏みをする者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。その叫び声は地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての肉なる者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──主のことば──万軍の主はこう言われる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大いなる暴風が地の果てから起こる。その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。』」
裁きはあります。そしてイエス様による救いも与えられています。神の裁きと救いを伝えるのが僕らの使命です。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(1テモテ2:4)
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