●国が滅んでいく時代
イスラエル人たちは神様を軽く見て裏切り続けました。神様の怒りを招くような偶像礼拝をし続けました。何年も、何百年もです。神様は何度も警告し、あなたがはバビロンに滅ぼされ、連行される、と言われていました。神様がおっしゃった通りにバビロンに捕まって全てを失っていく時代の預言です。
(1-2)
バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、主は私にこのように示された。見よ、主の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。
●良いいちじくとは、試練によって変えられるユダヤ人たち
イスラエルでは年に何度もいちじくが実るそうですが、6月ごろのいちじくが最高に美味しいそうです。最高にみずみずしくて、美味しい、非常に良いいちじくが沢山入ったカゴと、腐って酷くて非常に悪いいちじくが入ったカゴが二つありました。悪い方は食べられないものでした。カビが生えていたかもしれないし、形も崩れてて臭い汚物のようになっていたかもしれないです。そのような2つがありました。神様はおっしゃいました。
(3)
そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
(4-5)
すると、私に次のような主のことばがあった。
5,「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。
何もかも壊されて連れて行かれいくのは悲しく苦しいんだけど、でも、神様はその人たちを良いいちじくのように、あの美味しいフルーツのように、良いものとみなすとおっしゃいます。
(6-7)
6,わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。
7,わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。
神様は彼らを幸せにするために、目をかけてそのような苦しみを与えています。
このまま罪の生活を続けて神様を怒らせていたら彼らは幸せに神様はバビロンを使い国を滅ぼします。ところがそのどん底を経験して彼らは悔い改めて、神様を知り、神様だけを礼拝する人に変えられます。
29章で神様はこの敵であるバビロンという国のために祈りなさい、と言います。エルサレムの街を破壊し、自分の家族を殺した敵かもしれないけど、それでもそのバビロンの国の平和と繁栄を祈りなさい。そして、この国で、家庭を作り、仕事をし、畑を作って生活しなさい、と言います。
(29章4-7節)
4,「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5,家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6,妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7,わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
この試練は29章によると災ではなく、将来と希望を与えるための計画だと言います。
(29章10-11)
10,まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11,わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
罪を犯して神様に怒られひどい目に会うことは災ではない、と神様は言います。むしろ彼らが悔い改めて心から神様に立ち返るための通過点です。その意味でこれはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの、です。
僕らは自分が撒いた種のために苦しむことがあります。ユダヤ人たちは何年も何百年もやり続けた罪のせいで、神様の怒りに会い、占領され、連れて行かれます。でも、それさえ神様は回復のために用いる通過点とされます。
どん底まで落ちないとわからないことはたくさんあります。
僕らは波風立てたくないし、普通に生活したいです。でも、実際には隠れた罪は山ほどあるし、欠点も問題も必ずあります。神様は必ずそれを炙り出して、向き合ってくださいます。神様は僕らの罪ゆえに、ちゃんと辛い場面を与えて下します。それが表面に出てこないと僕らは認識しないし、変えられないからです。ひどい目にあって初めて僕らは罪を認めて悔い改めることができます。
イエス様はおっしゃいました。
(マタイ 5:3)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
ユージンピーターソンの私訳であるメッセージバイブルは次のようにマタイ5.3を意訳しています。
You're blessed when you're at the end of your rope. With less of you there is more of God and his rule.
the end of your rope もう後がない、というときこそ祝福されています。
自分を失っていくときこそ、もっと神様の恵みの支配が増えて行きます。
自分の罪ゆえに、今までのことがうまくいかなくなって、尽き果てたときこそ祝福のときです。
そこまでならないと、僕らは本当に自分の罪と向き合わないし神様と向き合わないからです。
(ヘブル 12:11)
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
みなさんが今行き詰っていることはありますか?もう進めない、と諦めていることはありますか?
聖書によると、それこそが神様が目をかけていてくださる中で起こっていることです。
(6)
わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。
どん底を経験するときに僕らは神様の前に砕かれ、悔い改める機会が与えられます。僕らの苦しみは通過点です。
わざわいでなく、平安のため、祝福のため、希望のため、将来のための苦しみです。
(エレミヤ20.11)
それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
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