僕らの周りにはひどいこと、わからないことがたくさんあります。
何も悪くないイエス様が憎まれ、12弟子の一人であるユダに裏切られ、逮捕されることも「なぜ!?」と思うことの一つです。
ペテロにとっては受け入れられない状況でした。そしてイエス様を守るべき場面でした。彼は一人で剣で戦いはじめ、相手の耳を切り落とします。
(47節)
イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
(51-52節)
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
戦うペテロに対して、イエス様はすぐにやめるように言われます。「剣をもとに納めなさい。」(52節)
戦わない理由は2つです。
●剣を取らない理由 その1
まず一つ目の理由は「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(52節)と言う理由です。
相手を攻撃する人は、自分も攻撃されます。小さな喧嘩でも言い返して解決することはありません。攻撃は攻撃を生み、結局自分が傷つきます。個人同士の関係も、国同士の関係も同じです。イエス様の教えはいつも「敵を愛しなさい」です。
(1ペテロ 3:9 )
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
この世界は悪に満ち、敵は攻撃して来ます。それらの罵りや侮辱を引き受けることは僕らにはできます。でも、イエス様は全ての罵り、悪、罪を自分のこととして引き受けてくださいました。イ僕らのために傷ついてくださり、死んでくださり、「あなたの罪は赦された」「完了した」と宣言してくださいます。
僕らが攻撃されたり、傷ついたりするときに、持っていく先はイエス様です。イエス様に報告し、委ね、問題をお任せし、相手を赦す祈りをは簡単ではありません。僕らには一緒に祈ってもらう仲間が必要です。一緒に怒りや恨みや悲しみをイエス様に委ねる祈りの友が必要です。そうでなければ僕らには手に負えない問題ばかりです。剣をもとに納める理由は、イエス様に委ねない限りは、自分が剣で滅んでしまうからです。(52節)
●剣を取らない理由 その2
(52-54節)
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
イエス様にとっては敵を滅ぼすことは簡単です。世界を造った方は一瞬で世界を滅ぼすこともできます。
しかし、イエス様にとって大事なことは神様のご計画が地上で行われることです。イエス様が苦しめられ、殺され、それによって人が受ける神様の怒りがなだめられることは、旧約時代から預言されていた神様のご計画です。
イエス様は神様のことばに従うことが何よりも優先でした。神様のことばである聖書が実現するためにイエス様は地上にこられました。このことは僕らにも言われています。戦いの武器は神様のことばに従うことです。
(エペソ 6:17)
御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
力で争うことは意味がありません。神様のことばに従うことこそが本当の戦い方です。
イエス様は自分を裏切り殺す人を愛し赦すためにこそこの地上にこられました。
裏切るユダを「友」と呼びます。最後まで彼を愛することをやめませんでした。
(48-50節)
イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
(…中略…)イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
今日も僕らの周りには「なんでこんなことが…」と思うようなひどいこと、わからないことがたくさんあります。でも、イエス様は「剣をもとに納めなさい。」と言われます。僕らが悲惨な状況に対して、悪に対して、本当の戦い方をすることができますように。
(ルカ 6:27-28)
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
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