イエス様がこの地上に来られた目的は「死ぬため」でした。僕らの罪が赦されるために、イエス様は人にも神様にも捨てられる必要がありました。そして、それはイエス様にとって死ぬほど悲しいことでした。
(37-38節)
それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
神の裁きと呪いを受けることは苦しすぎることです。それを受けるためにイエス様はきてくださいました。そして、弟子たちに一緒に祈ってくれるようにとお願いしました。
(39節)
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
イエス様はこの苦しみをできるなら去らせてください、と願います。でも、自分の願いでなく、神様の願いに自分を委ねる祈りをなさいました。これは僕らの祈りの模範です。僕らも正直にイヤなこと、避けたいことを言う祈りは良い祈りです。祈りに仮面や背伸びは必要ありません。そのように正直に祈ると同時に、自分の願いを手放し、「みこころのようになさってください」と祈ります。
正直に祈ることは大切です。嫌なことや避けたいこと、自分の願いを正直に言うことは大事です。でも、自分の思い通りではなく、神様の思い通りになるようにと委ね、お任せする祈りも大切です。
イエス様はこの後不当に逮捕され、拷問を受け、弟子たちは逃げていき、殺されて行きます。不当逮捕と死刑を受けることが神様のみ心でした。イエス様はすぐにでも天使を使わして敵を滅ぼすことができる神様です。でも、この時は権威も栄光も願いも捨てることがみ心でした。
(40-41節)
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
僕らの誘惑とは、神様の御心よりも自分の願いを優先することです。イエス様は逆です。3度も「どうぞみこころの通りをなさってください」と祈りました。
(42-44節)
イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
イエス様は自分を神様にお任せする祈りを繰り返され、ついに、自分を罪人たちに委ね、裏切られ殺される確信と平安を得られました。自分から十字架の処刑に向かうかのように、堂々と立ち上がっておられます。
(45-46節)
時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
イエス様は僕らにも言われます。「だから、こう祈りなさい。(…中略…)みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6.9-10)
今日も祈りましょう。自分の思い通りでなくてもいいです、と。その先には僕らが思う以上の神様のご栄光とご計画の実現が待ってます!
(ルカ 9:23-24)
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿