イエス様は立派な人を求めておられるのではなく、イエス様を裏切ってしまうような弱い人たちを愛し、あわれみ、赦す方です。聖書は「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」と言います。(ローマ5.8)ペテロはイエス様が逮捕されるとたんに、「そんな人は知らない。」と言って裏切って逃げるような弟子です。(マタイ26.72)そのような弱い弟子たちを愛し、犠牲になってくださるのが神様の愛です。
イエス様は弟子たちと一緒に「過越の食事」をされました。そして、この食事はイエス様が罪のための身代わりの子羊として殺されることを意味していました。まず、イエス様はパンを弟子たちの前で裂き、その裂かれるパンは「わたしのからだです」とおっしゃいます。これは、子羊が殺されて行くように、傷だらけにされ、釘で刺され、槍で刺されて殺されることを意味しています。
(26節)
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
イエス様はいつも十字架の処刑を思い出すように「これを行いなさい」とおっしゃいます。パンを裂くことはキリストが苦しんで殺され、全てをささげて下さったことを思い出させます。食べることは、イエス様が僕らの体に住んでくださることを思い出させます。一つのパンを分けて食べることはクリスチャンがみんなイエス様の体の一部であることを思い出させます。パンを食べることは、イエス様を自分の心にも体にもイエス様を受け入れることを表しています。
イエス様は「わたしが…命です」とおっしゃいます。(ヨハネ14.6)イエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とおっしゃいます。(ヨハネ6.35)
この後、弟子たちはイエス様を裏切り、ついていく力がないことが明らかになります。そんな彼らにわかるように教えるのがこの晩餐でした。弟子たちが頑張りでも力でもなく、イエス様がいのちであり、イエス様が力です。力も命もただ、イエス様から与えられるものです。
(27-28節)
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
この時の赤いワインは「罪を赦すために流される血」を表しています。
イエス様が十字架の上で殺され、血を流してくださるのは「新しい契約」でした。それは「彼らの罪と不法を二度と思い出さない」という赦しの契約です。(ヘブル10.17)
この後、ペテロも他の弟子たちも豪語して言います。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(33節)「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(35節)と。
でもイエス様は言われます。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(34節)そして、その通りに彼らは見事に裏切り、逃げて行きます。
イエス様はそんな弱い彼らのために、あらかじめ「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と赦しの契約を与えてくださいました。
裏切る前からイエス様は赦しを約束してくださっています。
今も僕らはイエス様が言われた通りに、一緒にパンを裂き、一緒に盃を飲んでイエス様が苦しまれ、殺され、血を流し、そして私たちを赦し、愛し、私たちの中に住んでおられることを確認しています。
聖餐は弱くて裏切り、罪を犯して逃げてしまう人のためです。立派な人のためではありません。自信過剰で、だのに本当は弱くて隠れてしまうような、そんな弟子たちのため、そして僕らが愛され、僕らと一緒にいてくださり、今日も見放さず、赦していてくださっています。
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