この世の終わりに神様は祝福されて天の御国に入る人と、呪われて永遠の火に入れられる人に分けられると聖書は言います。しかも、祝福された人は、「自分は良い行いをした!」と全然思ってない人です。
(31-34節)
人の子(イエスキリストのこと)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
祝福される人はイエス様自身を愛し、助けた人々です。しかも、その人たちはそんな良いことをした自覚がありません。
(35-39節)
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
空腹な人、渇いている人、旅人、着るものがない人、病気の人、牢に入れられている人のことをイエス様は「わたしの兄弟たち」と言われます。しかも、もっとも小さい人にしたことはイエス様にしたことだと言われます。
(40節)
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
僕たちは計算高くて、自分に良くしてくれる人には親切にしますが、メリットのない人は相手にしません。ところが、イエス様は一番貧しく、一番病気で、一番孤独な人を「私の兄弟たち」「私自身」と言われます。天の御国に入れられ「祝福された人たち!」と喜ばれる人たちは、自分でも気がつかないままに貧しい人たちを愛し、イエス様を愛しています。
イエス様ご自身が地上におられた時、いつも貧しい人、孤独な人、病気の人に寄り添っていました。しかも、自分を憎み、殺す人たちでさえ愛し、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23.34)と祈られ、彼らのために命をささげてくださいました。今も、飢えている人、貧しい人、病気の人、虐げられている人、そして敵を愛することはイエス様の心そのものです。
やがて、神様の前で僕らは祝福される人と呪われる人に分けられます。
この聖書のことばを読むと、僕らは恐れて「自分は無理…」とか、「もっと困っている人を助けなきゃ」と思います。
ところが、イエス様は「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:3)とおっしゃいます。
つまり、祝福される人たちは「僕は貧しい人に仕えたし、愛したし、助けたし、イエス様に仕えた」という自慢や自覚がなく「そんな立派なことをしましたか?」と思っている人たちです。それは、人の力とか心がけではなく、僕らの中に住んでくださっている聖霊の力と愛の表れです。聖霊が僕ら人間を用いられる時に、助けてあげるという上から目線はないし、やらねば、という義務感やプレッシャーもありません。単純に助けたいと思うしそれが自然だと思っている人です。もし、僕らが弱く小さな人に仕えることができるなら、それは僕らの内側に御霊が住んでおられる証拠です。
また、この世の終わりには神の怒りと呪いもあるとハッキリ聖書は言います。
(41-46節)
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
信じる人の中には聖霊がおられ、僕らの心も手足もイエス様の器官とされています。
僕らがすべきは、ただイエス様の邪魔や妨害をせず、この手足をどうぞ使ってください、と所有権を譲ることです。
イエス様がもっとも貧しい人たちを兄弟と読んでおられます。彼らを助け愛することは「わたしを愛し助けてくれた」とおっしゃいます。
僕らの手足も、預かっているお金も時間も力も、今日もイエス様のものとして用いられますように。
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