2023年1月30日月曜日

マタイ26.57-68

 イエス様がこの世界に来られたのは僕らの身代わりに「死ぬため」です

このことはずっと前から預言されて、イエス様が黙ってこの苦しみを引き受けてくださることが書かれています。


(イザヤ53.6-7)

主は、私たちのすべての咎を彼(イエス様)に負わせた。

彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


イエス様は逮捕され、尋問され、殴られ、唾をかけれました。

それでも口を開かず、黙って忍耐されました。それは、僕らの罪への神の裁きを背負っているからですイエス様の苦しみは、僕らの身代わりです


(59-60節)

さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。


(62-63節)

そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。


(66-68節)

彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」


黙って侮辱を受けてくださるイエス様は目的を持っていました。それは神の怒りのための供え物となることです


(1ヨハネ 4:10)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス様)を遣わされました。


罪を犯した人が神様に赦されるためには、「なだめの供え物」が必要なことは、旧約聖書で繰り返し教えられていることです供え物とは身代わりの死です。旧約の時代には、牛や羊の頭に手をおいて、自分の罪を告白し、そしてそれが殺されていくことを見ました。それによって罪の赦しを得ることができました。

次のように書かれています。


(レビ 4:2-4)

もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合(…中略…)

その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。

その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、

その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。


そのように、イエス様は僕らの罪を背負ういけにえとして、黙々と苦しみを受けてくださいました。


(イザヤ53.6-7)

主は、私たちのすべての咎を彼(イエス様)に負わせた。

彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


イエス様はこのまま処刑されます。が、それで終わりではありません。

復活し、罪と死を超えて圧倒的な栄光を現されます。イエス様は神様の権威を持ってもう一度この世界に来られます。


(63-64節)

大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子(イエス様のこと)が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」


イエス様がこの世界に来られたのは僕らの身代わりに「死ぬため」です

この苦しみによって僕らは赦され、もう神様の裁きを受けることがありません。


(ヨハネ 3:17-18)

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。


僕らが自分の罪を消すとはできません。

ただイエス様の苦しみによる赦しだけが唯一の道です

「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12)

ただ感謝しましょう。

あの苦しみと痛みによって僕らは赦されました。


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