僕らが失敗することはたくさんあります。その時に大事なのは「後悔」でなく「悔い改め」です。両者は全然違います。
「後悔」→自分を責めて、自分で責任を取ろうとすることです。後悔は闇と恥しかありません。
「悔い改め」→罪や失敗をイエス様に報告し、お詫びし、イエス様が完全に赦してくだることを確認し感謝することです。
「後悔」は自分に向かい、「悔い改め」はイエス様に向かいます。
ユダはイエス様を裏切ったことを「後悔」しました。
(3-4節)
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。
祭司の仕事は(本当は)罪を犯してしまった人のために神様に祈り、罪のための犠牲の動物を神様にささげて赦しを求めることでした。ところが、この時の祭司長たちは、後悔しているユダのために祈ろうとも犠牲を捧げようともしません。「自分で始末せよ」と職務放棄をします。
(4-5節)
しかし、彼ら(祭司長たち)は、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
ユダは祭司に祈ってもらうこともできず、自分で抱え、後悔し、自殺しました。
「後悔」は何も良い結果がありません。僕らがすべきことは「悔い改め」です。「悔い改め」はイエス様に報告し、イエス様に謝り、イエス様によって赦される福音を確認することです。
僕らは自分の罪の責任を自分では始末できません。自分の罪も相手の罪も、周りの人たちの罪も、委ね、告白し、引き受けていただく先はイエス様だけです。
ペテロも三度もイエス様を裏切って泣きました。
(マタイ26.74-75)
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
ペテロもユダも、裏切りの罪は同じです。でも、ペテロは後に悔い改め、彼は赦され回復しました。ユダの罪は自分で引き受け、自分で自分を罰し、自殺しました。
「後悔」は恥と闇と死の世界です。「悔い改め」は、イエス様の赦しと希望と命の世界です。
失敗はイエス様に報告し、委ねましょう。イエス様の赦しの福音は完璧です!
(ローマ 8:33-34)
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
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