聖書によると僕らは全員神様の怒りと裁きを受けるべき罪人です。聖書は僕らを器に例えて「滅ぼされるべき怒りの器」と言います。(ローマ9.22)でも、神様は僕らを愛し滅ぼさず、代わりにイエス様が怒りと呪いを受けてくださいました。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」と聖書は言います。(1ペテロ3.18)イエス様が僕らを救う方法は、雲の上で無傷でいることではなく、ご自分が神に捨てられ殺されることです。
(46節)
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
(50節)
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
神の子であり、神と一つのイエス様が「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、神様に見捨てられました。
イエス様は人に捨てられただけでなく、神に捨てられました。これは本来僕らが受けるべき神の怒りとさばきです。
イエス様が捨てられて殺されたその時、神殿の幕が裂けました。
(51節)
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
神殿は神様とお会いし礼拝する場所です。神とお会いする部屋(聖所)の中に入るためには、動物を犠牲が必要でした。
イエス様こそ完璧な犠牲です。そして、イエス様の死によって僕らは神様にお会いすることができるようになりました。もう、僕らと神様を仕切る幕はありません。
(ヘブル10:19-20)
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
捨てられたのは僕らではなくイエス様です。僕らはイエス様の十字架の犠牲によって神様に近く道が与えられました。イエス様は「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われます(ヨハネ14.6)僕らが神様と親しくできるのはイエス様の犠牲の死があるからです。僕らの祈りが聞かれるのもそうです。
愛とは犠牲です。
イエス様が犠牲になり、僕らは救われました。僕らはただイエス様に感謝をささげるのみです。ハレルヤ!
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