2023年2月14日火曜日

1コリント11.1−16

 聖書の原語で「礼拝」という言葉を調べると、「ひれ伏すこと」「明け渡すこと」という意味です礼拝は自分を神様の前に100パーセント明け渡します、捧げます、と表明する行為です。僕らが礼拝で賛美を歌う時も、祈る時も、聖書の言葉を聞く時も、それは神様に自分を捧げる行為です


教会がスタートした頃、いろんな国や文化の人が一緒に集まって礼拝しましたが、違う人たちが集められたゆえの混乱があったようです。で、それは現代の教会でも同じですそれを乗り越えるために大事なことは自分の考えに固執せずに神様の前に「ひれ伏し」「明け渡す」ことです


当時ユダヤ人の女性にとっては礼拝の時にかぶりもの(ベール)をするのが当然でした。神様は男と女を区別してそれぞれに良いものとして造られました。なので、男が女装したり、女が男装することを(逆も)神様は「嫌う」と書かれています。神様は僕らの性別を喜んでおられるからです。なので、僕らも男らしく、女らしく造ってくださったことを尊重すべきです


(申命 22:5)

 女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。



今日の箇所は女性がかぶりもの(ベール)をするかどうか、という問題について書かれています。理由は書かれていないけども「女性のかぶりものは必要ない!」という人たちもいたようですそのような作法やマナーの混乱は現代もよくあります。聖書は(当時の)マナーを守るべし、と教えます。



4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。

5 しかし、とき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです

6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。


13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、

15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということですなぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです

16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。



聖書が教えているのは保守的でありなさい、ということではないし男子の長髪禁止、ということでもありません。また、現代の教会の女性に「ベールをかぶりなさい」と教えているのでもありません。コリントの教会は分裂や分派、党派心の問題がありました。その問題の中で、聖書はもう一度神様を礼拝することは自分の考えや主義主張に縛られることではなく、明け渡すことだと教えています。へりくだって相手を立て、秩序やマナーを守ることで不要なつまづきや争いを避けることができます。


神様は性別を作ってくださいました。まず男性を作り、次に男性から女性を作られました。(創世記2章)そのことを次のように表現しています。「かしら」とはここでは権威ではなく「源泉」「源流」という意味です


3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのですすべての男のかしら(源泉)はキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です


神様は男尊女卑を教えていないし、男女の優劣はありません。また、ユダヤ人は偉くて、それ以外はランクが下、ということもありません。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」とあります。(ガラテヤ3.28)もちろん、キリストと神様の優劣はありません。


同時に、聖書は秩序や順番があると教えています。例えば、夫は妻を愛しなさい、妻は夫に従いなさい、という教えが聖書に何度も出てきますが、これは優劣ではなく役割の違いです。そのように、男性は男性としての役目があり、女性は女性としての役目が与えられています。その神様のご計画を尊重し、自己主張を明け渡すのが礼拝です



7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです

8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、

9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです

10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきですそれも御使いたちのためにです


今日の箇所はベール問題で混乱していたコリント教会に当てた手紙です。これは僕らにも適用できます。今、東栄教会ではベールの問題はないし、かぶらなくてもいいと思います。(もし、カトリック教会の信者さんならかぶったほうがいいですそれがカトリック教会の文化を尊重し愛することです。)


今僕らの周りにベール問題はなくても、僕らがしていることが他の方の感情を害したり教会を分裂させる可能性のあることならそれは変えるべきことです今日の箇所で教えていることは謙遜と服従です礼拝とはひれ伏すことです。イエス様ご自身が神であるのに、その身分を立場を権威全部捨てて僕らを愛し十字架の処刑までしもべとなってくださった方です僕らがその十字架の前でどちらが偉いか正しいか、議論している場合ではありません。今日もひざまづきましょう。全てを明け渡してくださったイエス様に感謝し、従いましょう。


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