イエスはいつも人々と一緒に食卓を囲みました。そして教会がスタートした頃も信者は一緒に食卓を囲みました。その時代には「教会堂」はありません。実際には家に集まる集会です。当時一緒に食事をすることはその当時は家族であり身内であり親友であることを現していました。大きな家に集まって食事をし、そこで礼拝をするのが一般的だったようです。ところがコリント教会には分裂や分派があり、食事の席にもそれが現れ、強い人が先に食べ、貧しい人や弱い人が後回しにされていたようです。
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。(…中略…)
21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
教会には身分の低い人、貧しい人がいました。彼らは、そこでしか食事を取ることができないほど貧しいのに、食事は残されておらず、満腹して酔ってる人のすぐ近くに孤独で空腹の人がいたようです。パウロはそれを叱っています。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
教会の交わりはイエス様との交わりです。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1.3)それで、イエス様はイエス様を思い出すための食事をしなさい、と定めてくださいました。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
イエス様は「渡される夜」(十字架で殺される前夜)の食事で弟子たちにパンを裂いて、私を思い出すためにこれをしなさい、とおっしゃいました。今も教会ではパンを裂いて、イエス様が鞭で打たれ、皮膚は裂かれ、釘で手足が貫通し、神の怒りを身代わりに受けてくださったことを思い出すためにパンを裂きます。目的はイエス様の犠牲を思い出すためです。イエス様の苦しみを思い出す時、僕らは自分の傲慢さや党派心を恥ずかしく思います。
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
杯を飲むことは、イエス様が血を流して死んでくださったことで「あなたの罪は赦された」という新しい契約を確認するためです。一般的にこのパン裂きと杯は「聖餐式」と呼ばれることが多いです。目的は十字架とその赦しの契約を思い出すためです。また一つのパンを分けて食べることは、僕らがバラバラでなく、イエス様のつながる一つのからだ、一人一人はキリストの器官であることも思い出させます。
(1コリント 10:17)
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
(1コリント 12:27)
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
イエス様の十字架の姿を思い出すなら「めいめい我先にと自分の食事を済ませる」(21)ことも弱い人がお腹をすかせたり独ぼっちでいたりして「貧しい人たちをはずかしめる」こともなくなります。(22)教会の中心は今日もイエス様の十字架です。
聖書は自分を吟味しなさい、と言います。自分がどれだけ愛の無い人間か、イエス様を後回しにする傲慢な人か、自分を考えてみなさい、と聖書は言います。そのためにイエス様が血だらけになってくださいました。
もしも、十字架のイエス様を考えないで、自分の欲のためだけに集まり、派閥を作り、高ぶり、教会の交わりを自分のために利用する人はさばかれる、と聖書は言います。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
教会の中心はイエス様の十字架の姿です。誰が偉いか正しいか、ではありません。気の合う人同士のサークルでもありません。教会はサービスを受ける場所でもありません。利用する所でもありません。教会はイエス様の十字架によって赦されたことを感謝する交わりです。
(1コリント 1:23)
私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
あの血だらけの十字架の前では僕らは謙遜にさせられます。今日も僕らがただイエス様の前にひざまずき、感謝し、赦された罪人者として周りの人に仕えていけますように。
(ピリピ 2:3-8)
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(…中略…)キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
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