聖書のメッセージの中心は「イエス様が十字架で死んでくださり、僕らの罪は赦された」ということです。不思議なことですが、信じる人にとっては最高に力あるメッセージなんだけど、信じない人にとってはバカバカしい話のようです。しかも、「誰が信じるか」は、神様だけがお決めになります。頭の良さとか理解力には関係がなく、ただ、神様の力と選びによってだけ信じることができるメッセージだと聖書は強調します。
18 十字架のことば(イエス様の十字架刑によって僕らは救われる、というメッセージ)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことば(イエス様の十字架刑によって僕らは救われる、というメッセージ)の愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
僕ら人間は証拠を求めたり説得力のある話を求めます。当時のギリシャ人は知恵のある賢い話を求め、ユダヤ人は証拠としての奇跡を求めました。ところが、十字架のイエス様によって救われる、という話はどちらでもありません。ただ、神様から呼ばれた人たちにとっては力あるメッセージです。これは不思議なことです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
僕らもは「もっとすごい奇跡があったらみんな信じるのに…」と思うかもしれません。ですが、神様は奇跡で人を信じさせることはしないようです。むしろ、バカバカしいと言われるような十字架の話で神様は人を呼んでくださいます。
また、「もっと理論的で素晴らしい話ならみんな信じるのに…」と思うかもしれません。でも、そうしない、と聖書は言います。イエス様を信じることができるのは、100パーセント神様の力です。頭がいいから、とか、身分が高いから、とか話に知恵があるとか、そのような自慢は一切できないように神様はしているようです。
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(…中略…)
31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
神様は人間が自慢しないように、わざわざ弱く愚かな人を選ばれたと聖書は言います。(28節)誰も威張ることはできません。ところが僕らは自慢や高慢が大好きです。イエス様を信じはじめの人は「こんな罪人の私が救われた!!」と大喜びします。…ですがいつの間にか、自分は知恵があるとか、お金があるとか、権力があるとか、無価値な自慢の芽、高慢の芽が成長することが良くあります。
信じた人はただ、神様に感謝です。人が信じる理由は神様が選んだからです。それ以外にありません。人の手柄はありません。全部が神様のおかげです。感謝しましょう。もし自慢したくなったら、イエス様の十字架のゆるしだけを誇りましょう。それ以外に誇りはありません。
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