聖書は罪をやめるように教えています。自分はもちろん、仲間が罪をしている時にも止めるように忠告するように教えています。
(マタイ 18:15)
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
個人的に忠告しても聞かないなら、次に他の人にも相談してちゃんと罪をやり続ける人と向き合うようにと聖書は教えています。
(マタイ 18:16-17)
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。
聖書は仲間の罪も自分の問題のように取り扱うようにと教えます。もちろん正しい人はいません。聖書は「義人はいない」と言います。(ローマ3.10)それでも神様から「正しい」と言って頂けます。それはイエス様が十字架の上で僕らの罪を背負い、身代わりに死んでくださったからです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1.7)
僕らはただ、イエス様の十字架の血(処刑)によって赦される、と信じるので仲間にも罪をやめるように言えます。仲間も罪を赦され回復することができるからです。
聖書は罪を取り除くようにと何度も言います。ちゃんと罪と向き合い、仲間の罪について話すことは誠実であり、仲間の回復を願うことです。そして、それでも罪を止めることがないなら、その人との交流はやめるようにと教えています。
(1コリント 5:1-2)
あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
(1コリント 5:11-13)
私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(…中略…)あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(…中略…)その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
士師記19章に、イスラエルのベニヤミン族のギブアという町の人々が淫行に染まり、しかも男同士の淫行もレイプも当たり前になっていたことが書かれています。エフライム族のある女性が性的な暴力を受け殺された事件を受けて、イスラエル全体が集まり、犯人たちをさばこうとします。
11 こうして、イスラエル人はみな団結し、こぞってその町に集まって来た。
12 それから、イスラエルの諸部族は、ベニヤミンの諸族のすべてに人をやって言わせた。「あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。
13 今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ。彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去ろう。」ベニヤミン族は、自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとしなかった。
ベニヤミン族は罪を認めず、犯人たちをかばい、訴えてくる他の部族を攻撃しに出てきました。こうして、イスラエルはベニヤミン族VS他の11部族という戦いに発展します。これは、イスラエルの中の罪を取り除こうとする戦いです。
戦いの初日はベニヤミン族が勝ち、11部族が負けます。負けた彼らは泣きながら神様の前に祈り、神様に聞きます。それでも神様は「攻め上れ」とおっしゃいます。
23 そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。「私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」すると、主は仰せられた。「攻め上れ。」
2日目も彼らは負けます。神様が「攻め上れ」とおっしゃったのに、です。彼らはまた、泣きながら断食し、礼拝し、神様に求めます。
24 そこで、イスラエル人は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたが、
25 ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て、彼らを迎え撃ち、再びイスラエル人のうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。
26 それで、すべてのイスラエル人は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげた。
28 「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は仰せられた。「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」
三日目にようやく、神様がおっしゃった通りにベニヤミン族は倒されます。罪と向き合うことは簡単なことではありません。ですが、神様は罪を犯す仲間に対してきちんと向き合うようにと教えています。11部族は罪を犯すベニヤミン族と戦うことになりましたが、それは「主が」戦ったと聖書はいいます。
35 こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。
これは主が罪を取り除く戦いでした。繰り返しますが罪と戦うことは簡単ではありません。11部族は2回も負け、泣きながら神様に礼拝し、求め、祈り、その悲しみと犠牲の中でようやく勝つことができました。神様への祈りと願い、そして自分たちの悔い改めががそのプロセスに必要です。
罪は本人だけの問題ではありません。仲間全体を傷つけ悲しませます。誰より神様の悲しみです。イエス様の赦しや恵みを知りながら罪を犯す人はイエス様をもう一度苦しめ恥辱を与える人だと聖書は言います。
(ヘブル 6:4-6)
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
教会の中で、家族の中で、自分たちの仲間の中で罪があるならば、それを自分のこととして神の前でへりくだることが求められています。相手の罪は僕ら全体の罪です。兄弟の小さな罪を発見する人には、もっと大きな罪があると聖書はいいます。(マタイ7.4-5)
罪は取り除きましょう。自分も仲間もです。手術には痛みが伴います。でも、ちゃんと向き合わなければなりません。自分も相手もきよくなることを願い行動することは誠実さの現れ、そして愛の現れです。
(旧約聖書 箴言 27:5-6)
あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。
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