性欲は神様が人間に与えてくださった祝福の欲望です。男女が一つになることは素晴らしい神様からの祝福です。男女が愛し合い一つになることは神様の姿に似ているすばらしく良いところです。神様は「人間を作られた時、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書かれています。ひとりである神様は父、子(イエスキリスト)、聖霊の交わりを持っています。同じように、人間は男がいて女がいて、神様がおられて、互いに求め合って一つとなるように交わります。恋愛や結婚は神様に似ている素晴らしさを現しています。
ところが、神様から離れた人は相手の人格を愛するのではなく、性的欲望のための便利な道具として「利用」するだけの存在にしてしまいます。相手は自分にとって役にたつか立たないかで評価します。その時、性欲は野獣のようなものになってしまいます。野獣化した人はさらに性欲を男同士で使うようになります。性的な暴力、しかも同性同士で辱め合う暴力を神様は「その罪は非常に重い」と言われます。(創世記18.21)聖書に書かれている性暴力の罪がいくつかありますが、ソドムという町は神様の怒りを受けて火で焼き尽されました。
(創世 19:24-25)
そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
神様は性暴力を怒り、滅ぼされます。しかもその罪はイスラエル人たちも染まって行きました。
イスラエル人は神様が造り、愛し、わたしの子、わたしの妻、と表現するほどの人々です。
このような罪が当たり前の民族とは絶対に交わってはならない、と何度も警告しています。そのような猛毒のような人々と交わるなら、必ずその悪影響を受けるからです。
ところがイスラエル人はその罪に染まりました。
ある人が妻を連れもどすために妻の実家まで迎えに行って一緒に戻る途中、ギブアという町に泊まった時の出来事です。
ある老人が家に泊めてくれました。が、その町の男たちが家を取り囲み、レビ人(男性)を求めて襲ってきます。
21 こうして彼(老人)は、この人(レビ人の男性)を自分の家に連れて行き、ろばに、まぐさをやった。彼らは足を洗って、食べたり飲んだりした。
22 彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸をたたき続けた。そして彼らは、その家の主人である老人に言った。「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。(その男と性的にやりたい、の意味)」
これが神様が愛するイスラエル人たちの現実です。
この老人は客であるレビ人の男性を守ろうとしますが、自分の娘やレビ人の妻(そばめ)を身代わりに犯してもいいと言います。しかも、レビ人は実際に自分の妻(そばめ)を野獣化した男たちの前に放り出し、彼女は朝まで餌食にされ犯され、そして死んでいきます。
24 ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ。」
25 しかし、人々は彼に聞こうとしなかった。そこで、その人は自分のそばめをつかんで、外の彼らのところへ出した。すると、彼らは彼女を犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けかかるころ彼女を放した。
このレビ人は、妻が犯され殺されていくのに、妻のことを何も気にかけていません。彼は無情にも朝まで眠ります。しかも、既に死んでいる妻に対して、「起きろ、いくぞ」と言います。
26 夜明け前に、その女は自分の主人のいるその人の家の戸口に来て倒れ、明るくなるまでそこにいた。
27 その女の主人は、朝になって起き、家の戸を開いて、旅に出ようとして外に出た。見ると、そこに自分のそばめであるその女が、手を敷居にかけて、家の入口に倒れていた。
28 それで、彼はその女に、「立ちなさい。行こう。」と言ったが、何の返事もなかった。それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。
これが、神様から離れたイスラエル人たちの罪の現実です。
そして、神様から離れた僕ら人間の現実です。
神様から離れた人は自分の損得や都合でしか相手を見なくなってきます。
相手を本当に愛することは神様によらなければできません。
愛とは、相手のために自分が犠牲になることです。
妻を愛することは、キリストが身代わりに死んでくださることがお手本だと聖書はいいます。
(エペソ 5:25)
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
(2コリント 5:15)
キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
これは、僕らにはできません。ですが、イエス様を信じる時に、僕らではなく、キリストが僕らの心を作り替えてくださいます。イエス様を信じることは、自己中で野獣のような僕らが死んで、キリストの命がはじまった、ということです。
(ガラテヤ 2:20)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
性的な交わりは、本来は素晴らしく良いものです。
相手を苦しめ、殺すものではなく、相手を生かし、神様の祝福と愛を現すものです。
これは、イエス様によって神様に立ち返った人だけが回復可能な祝福です。
0 件のコメント:
コメントを投稿