神様が選んで任命したのではない、ニセもの祭司とか、収入をもらうために祭司をやる人がいました。現代も牧師さんのフリをして結婚式場でアルバイトをする人もいるようです。
聖書は言います。「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに(意味もなく、形だけ、口だけで)唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(旧約聖書 出エジプト 20:7 )
ミカという人は勝手にマイ神殿を作り勝手に祭司を任命していました。本当は神様によるものではないし、形ばかりの雇われ祭司です。その祭司は自分で「雇われたので祭司になった」と言っています。
3 彼らはミカの家のそばに来、あのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、そこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」
4 その若者は彼らに言った。「ミカが、かくかくのことを私にしてくれて、私を雇い、私は彼の祭司になったのです。」
神様に任命されてもないのに祭司っぽいことをできる彼は、神様を信じていない証拠です。本当に神様を知っている人ならそんなことはできません。彼は簡単に神様のみこころを答えます。もちろん形ばかりです。ダン族の偵察隊の5人は自分たちが手に入れる土地を偵察する旅が守られるかどうか神様に伺ってほしいと願います。
5 彼らはその若者に言った。「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」
6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」
聖書が教える祭司は、アロンの子孫のみ、と規定されています。でも、この人は雇われて勝手に祭司にりました。しかもその神殿(勝手なマイ神殿)には彫像とか鋳造が置かれていて、聖書の教えとは全然ちがうものです。そんな彼ですが、ただ、相手を喜ぶように「主が認めておられます」などという言葉を軽々しく言います。
ニセモノ祭司に旅の安全を伺ったダン族の人々も同類です。ダン族には神様が他の場所を与えておられました。が、彼らは神様のことばに聞かず、その土地を手にいれることを先延ばしにしていました。それで、もっと楽な土地を探していたようです。
7 五人の者(ダン族の偵察隊)は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見ると、彼らは安らかに住んでおり、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきっていた。この地には足りないものは何もなく、押えつける者もなかった。彼らはシドン人から遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかった。(…中略…)
9 そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。
10 あなたがたが行くときは、安心しきっている民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。その場所には、地にあるもので足りないものは何もない。」
ダン族の彼らは安心しているライシュの人々を虐殺し占領しようと思います。神様が与えてくださった土地ではない場所を「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる」と言っています。しかも、祭司が(ニセモノだけど)「主が認 めておられます」と保証してくれたと言ってくれました。彼らは何もかもが上手くいくと思っています。
自分の都合のいいように「神様はこうだ、神様はこう言っておられる」と思ったり言ったりする傾向は僕らにもあります。信仰的な発言をしていても、実は自分の欲望が混在していることがよくあるし、ますますそういう時代になるから注意しなさい、と聖書は言います。
(新約聖書 2テモテ 4:3-4)
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
ダン族は本当に主に聞き従っているのではなく、自分の都合や願いのために神様を利用しているだけ、というのは明らかです。この後、彼らはミカの家にあった偶像を平気で盗みます。
17 あの地を偵察に行った五人の者は上って行き、そこにはいり、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は武具を身に着けた六百人の者と、門の入口のところに立っていた。
18 五人の者がミカの家にはいり、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。そのとき祭司は彼らに言った。「あなたがたは何をしているのか。」
ミカの家の雇われ祭司は盗まれて行く光景を見て最初は「何をしているのか」と言います。ところが、ダン族の人々は私たちの部族全体の祭司になってください、と言います。これは魅力的な転職です。個人の家の祭司ではなく、もっと大きな部族の祭司になれる、ミカの家で働くより、もっと良い生活ができる、というオファーです。「祭司の心ははずんだ」と聖書はいいます。
19 彼らは祭司に言った。「黙っていてください。あなたの手を口に当てて、私たちといっしょに来て、私たちのために父となり、また祭司となってください。あなたはひとりの家の祭司になるのと、イスラエルで部族または氏族の祭司になるのと、どちらがよいですか。」
20 祭司の心ははずんだ。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中にはいって行った。
これが、神様のことばから離れた僕ら人間の本性です。聖書のことばをそっちのけにして自分の損得で考え、自分がしたいことを正当化するために、色々な理屈を持って来て「これは主の導きだ」と言います。聖書のことばよりも、あの先生がこう言ってくれたからとか、クリスチャンの友だちがこう言ってくれたから、ということを都合よく利用して、だからこの道に行くの神様の導きだ、主張することがあります。
神様は自分のために「利用」する存在ではありません。上下が逆です。神様の前に僕らは小さな存在です。礼拝とは「ひれ伏す」という意味です。祈りは自分の願いがかなうことではなく、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることです。神様に仕えることは職業ではないし、ビジネスでもありません。神様を「利用」するのはやめましょう。自分の3K(自分の計画、計算、経験)は一度わきにおきましょう。自分の立場や考え優先ではなく、神様のご栄光ご支配だけが崇められますように。僕らが生きて働いている神様とそのことばを恐れ従うものでありますように。
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