神様は富む人を造り、貧しい人も造られました。しかも、聖書は富む人が良くて貧しい人がダメ、とは教えていません。両者とも、神様が造られた大切な人です。両者は出会い、助けるように、また助けられるようにと聖書は教えています。
2 富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。
この世では金持ちが貧乏人を支配する、という現実があります。「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。」(7節)そんな罪の現実の中で、聖書は貧しい人に与えることの祝福を教えています。神様は貧しい人の訴えを特別に聞いていてくださいます。
9 善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。
22 貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押えつけるな。
23 主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。
また、助けてもらうことや恵みを受けることを神様からの恵みとして受けることも必要です。人から助けを受けることや好意を受けることは金銀よりも尊いと聖書は言います。
1 名声は多くの富よりも望ましく。愛顧を受けることは銀や金にまさる。
愛し与えることの大切さと同じく、愛されることや与えられること、助けられることの大切さを聖書は教ています。聖書の教えはいつも「互いに」です。一方通行ではありません。「愛顧を受けること」(1)も大切な宝です。だのに、僕らは「私は愛されなくていい」「私は人に助けてもらってはいけない」などの決心やポリシーを持つことがあります。それは高ぶりです。無意識のうちに人からの愛や恵みを受けるのは悪いこと、と決めつけている人もいるようです。富も誉も命も神様のものです。へりくだって主を恐ることは、人に与え、また人からも受ける両面があります。
4 へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
富んでいる人も貧しい人も、与える人も受ける人も互いに嘲ったり見下したりするのをやめて助け合うことこそが平和の道です。
10 あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ。
11 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。
日本の社会では高齢者や障害者や事情で収入がなくなった人が生活できるように、今働いている人が納めたぶんを、既に退職した人や困ってる人にあげるようになっています。それが年金です。年金は自分のためではなく、困っている人を助ける仕組みです。相手を見下したり、バカにしたりするのをやめるなら、争いはなくなります。
神様を第一に求めるなら、不要な争いや苦しみから遠ざかります。そして、神様の言葉を第一と求めることを子どもたちに教えなさい、と聖書は言います。
4 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
5 曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。
6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。
僕らは全員高ぶって神様より自分の考えを優先したがるので、親に愛されつつ懲らしめられる必要があります。神様も僕らを愛する子どもとして懲らしめを与えて成長させてくださいます。
15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
(ヘブル 12:6-11)
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。(…中略…)霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
僕らはお金持ちでも、そうでなくてもまだまだ愛するレッスン、そして愛されるレッスンが必要です。能力があってもなくても、性格が良くても貧しくても、です。神様は僕らを今日も成長させてくださいます。持っている人が良い人、持ってない人が悪い人、ということはありません。両者ともに愛される子どもです。そして、神様のレッスンは神様の言葉と、僕らの人間関係の中でそれを実践することによって与えられます。
持ってる人は与えましょう。持ってない人は感謝して受け取りましょう。全ては神様からです。主は愛してくださっています。ハレルヤ!
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