クリスチャンが「成長する」ことは、自分の力から神様の力へ変わって行くことです。自分中心から神様中心へ、だんだん全ての体重を神様に預けていくことです。なので、「成長」は自分が「脱力していく」とか「死んでいく」ということです。
この世では「命や力を失ってはならない」と教えますが、聖書は「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」と言います。(マタイ18.25)
頑張って背伸びしてハードルを越えるのではなく、「もうムリ」という時こそ神様の愛とあわれみ、そして慰めが現されます。使徒パウロは何度も迫害を受け、殺されそうになるたびに神様の愛と慰めをリアルに体験しました。パウロは苦しみを受ける理由は神様に頼る人になるためだと言います。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
神様の慰めとは、いつも見放さず一緒にいることを教えてくださることです。生きていても一緒、死んでも一緒です。そして、苦しみの中でも神様が一緒にいてくださったことを体験する人は他の人を慰めることができます。確信を持って、「それでも神様は一緒にいてくださる」と言えるようになります。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
クリスチャンは、イエス様に繋がった人です。そして信じた人は苦しみにも参加することになります。ですが、それ以上に神様の慰めや希望は大きいです。イエス様は苦しみを受けた方ですが、復活して全ての権威と栄光を持っています。そしてクリスチャンもやがてその権威と栄光に参加します。だから、僕らに苦しみはありますが絶望はありません。イエス様はおっしゃいました。
(マタイ 5:11ー12)
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
イエス様は苦しみを受け殺されましたが、復活して最高の栄光を持っています。これが僕らのお手本です。使徒パウロもひどい苦しみを受けましたが、脱出できたことを感謝しています。
僕らがイエス様と一緒にいることは、教会の仲間と一緒にいることです。パウロの苦しみは教会の皆さんに共有して一緒に祈ってもらう必要がありました。パウロの苦しみは教会全体のものでした。パウロも、そして僕らもキリストの体(教会)の一部です。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」と聖書は言います。(1コリント12.26)パウロが苦しみから抜け出したことは教会全体の喜びでした。そのように、苦しみは教会全体が神様に祈り、神様の慰めを一緒に体験するためのものです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
試練からの脱出や慰めは自分一人だけの出来事ではありません。教会の仲間たち全体の出来事です。僕らは試練の時に一緒に祈ることで、救いや慰めの時にも一緒に神様のリアルさを体験します。
11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
僕らの人生には苦しみがありますが、それは教会の仲間たちと一緒に感謝するための苦しみです。苦しみは祝福と感謝へのイントロです。教会の仲間と一緒に祈りましょう。苦しみも喜びも共有しましょう。試練は教会全体の成長のためのものです。試練を避けず、隠さず、信頼できる仲間に祈ってもらいましょう。それは「与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。」(11節)成長は苦しみを通して、仲間に祈ってもらう中で与えられます。苦しみは感謝へと導く神様の方法です。主は素晴らしいです!
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