教会の仲間一人ひとりは神様にとって命よりも大きな宝だと聖書は言います。イエス様がご自分のいのちを支払って手に入れた人たちです。しかも、いい人とか美しいとか協力してくれるとか、そういう良いところが全然ない罪人を神様はいのちをかけて手に入れ、愛する人、宝の人としてくださっています。
(ローマ 5:8)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(1ヨハネ 3:16)
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
コリントの教会の人々も神様の宝です。現実は高ぶりと派閥争いがあり、性的な罪があり、復活や永遠の命をまともに信じない人たちもいる、しかもパウロに対しても批判する、乱れた、ヒドイ教会です。それでも、そんな教会の一人ひとりを神様は愛しておられ、忍耐しておられます。そして、使徒パウロもイエス様と同じ心になって愛しています。
ひどい人達を愛し育てることができるのは、それがパウロの力ではなく、神様からの愛と恵みだからです。パウロはそれを自覚しています。パウロがコリント教会の人々に書く内容も、言葉も、愛も、全部神様から与えられたものです。
12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
パウロは乱れた教会の仲間たちが、やがて神様の前に聖く完全な人に成長し変えられると信じきっています。イエス様がもう一度この世に来られる日には、コリント教会の仲間たちは完璧な人になっています。パウロにとって誇らしい人々になると言い切ります。それは確信です。
14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。
神様が僕らに願っておられることは「信じること」=「信仰」です。今がどんなにヒドくても、神様には不可能はありません。ひどい罪人たちがイエス様に愛され、変えられ成長します。パウロはそう確信しています。なのでパウロは手紙で罪をやめるように、悔い改めるように、高ぶらないようになど、手紙で厳しく言ってきました。神様は必ず変えてくださると信じるからこそ、忍耐して厳しいことも書くことができました。彼の力ではなく、神様の力、神様の知恵です。パウロから出たものではありません。
12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
パウロは最初、コリントの教会を2回訪問して恵みを与えたいと思いました。でも、計画を変えました。まだ訪問は早いと判断したようです。急に計画を変えたので、人々から「気まぐれだ」とか、「言ってることと行動が違う」とか批判されていたようです。パウロは計画を変えた理由を言います。
23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
今訪問すれば、パウロはコリント教会の人々を厳しく叱り、悲しませるような訪問になってしまうことがわかりました。だから、訪問する前にもう一度手紙を書き、罪は悔い改めるように、そして悔い改めた仲間を赦すように、愛するようにと教えています。
パウロはゴールが見えています。それは教会の仲間と一緒に喜ぶ日が来ることです。今どんなにヒドくても回復するというゴールです。そのためには予定変更して「今は訪問しない」という選択もありました。それは教会の仲間を悲しませないためです。
2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
訪問しないのは、無関心なのではありません。彼らを支配しないためです。パウロはあくまでも神様の協力者です。教会を作り育てるのは人間ではなく、神様ご自身です。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
(1コリント 3:7-9)
たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。(…中略…)私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
クリスチャンはお互いに相手の協力者です。上下関係はありません。神様だけが崇められる方です。相手も自分もただイエス様に選ばれ、赦された元罪人です。上下はありませんが、相手がイエス様によって回復し、喜びと希望に溢れるように用いられることができます。お互いに相手が神様に近づき、罪をやめ、喜びと平安を回復できるように祈り合い助け合うことができます。それはどちらが上ということはありません。ただ、神様によって用いられるだけです。
パウロが書いている手紙も、彼の行動も、全ては神様から与えられた知恵と力です。そして、僕らも神様からいろんな賜物を預かっています。でも目的は同じです。教会の仲間が罪をやめ、喜びと祝福を回復するのに協力するためです。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
僕らが思うよりもずっとずっと神様は教会を宝だと思っています。神様のいのちがかかった宝です。終わりの日には一人ひとりは神様にとって誇りとなります。そして僕らもやがてお互いの存在を誇る日が来ます。
14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。
今、忍耐して互いに赦したり教えたり、相手のために祈ることは、神様の願いそのものです。相手がどんなにヒドくても、神様のいのちがけの宝です。互いのために祈り続けましょう。互いのために愛し続けましょう。相手が神様と近づき喜びのために協力しましょう。その日の天の喜びと栄光は確実です!!
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