2023年2月21日火曜日

マルコの福音書8.14-21

 マルコの福音書8.14-21

普段は教会に通い、自分は神様を信じていると思っていても、いざとなったらまるで信仰がどこにあるのか分からないようなことを言ったり、したりすることがあります。平和な時や満足している時よりも、苦しい時やうまくいかない時こそ神様への信頼度が問われます。
弟子たちはイエス様が5つのパンを5000人に分けるのを体験しました。また、7つのパンを4000人に分けるのも体験しました。でも、その直後、舟にパンが一つしかない時、弟子たちはイエス様の大きさは忘れてしまって、誰のせいでこうなったのか、と議論をはじめます。
14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。(…中略…)
16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
そんな弟子たちにイエス様は言われます。
15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
パン種というのは教えや考えのことです。ここでは悪い考えや教えのことです。パン種はどんなに少量であってもパン全体を大きく膨らませます。同じように悪い考えや教えはどんなに小さくても人生全体に悪影響を与え、また、教会全体に悪影響を与えます。
パリサイ人のパン種、というのは神様の恵みよりも自分たちの立派な行ないを中心に考え、ちゃんとしてない人たちを見下し、裁く考えです。パリサイ人は律法を守ることで自分たちは正しい、と考える人たちです。
弟子たちはパンがないことで「誰がちゃんとパンをもってこなかったのか」「あの時こうするべきではなかったのか」と議論をします。これがパリサイ人のパン種です。神様の愛や恵みや力の大きさを全く忘れて自分たちの正しさを競い合い、裁き合います。
ヘロデのパン種というのは、神様よりもこの世で上手く行くことを優先する現実主義のことです。ヘロデとは当時の王様です。ユダヤ人の中には神様よりもこの世の権力者にこびへつらう人たちがいました。
弟子たちは神様の力や愛よりも、パンがないという現実をこの世の知恵や力でなんとかしようと議論します。パリサイ人のパン種(律法主義)もヘロデのパン種(現実主義)もどちらもイエス様の恵みがわからない、忘れている、ということで共通しています。弟子たちはちょっと前にイエス様の愛と力を体験したばかりなのに、です。イエス様の恵みを忘れる時に、僕らは人間的な考えしか見えなくなり、裁き合います。
そんな弟子たちにイエス様は言われます。
17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
イエス様が願っていることは、僕らがイエス様により頼むことです。イエス様が一緒にいてくださる恵みの大きさを知り続けることです。イエス様が一緒にいてくだされば、恵みも助けも日々の必要な金銭も充分与えられます。
(新約聖書 ヘブル 13:5)
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(新約聖書 マタイ 6:31-33)
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(…中略…)神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
主は今日も一緒にいてくださいます。主に求め、主に頼りましょう。主が僕らを離れたり見放したりすることはありません。主を第一にもとめましょう。

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