どちらが良いか判断がつかない時は、「どちらが神様を愛し人を愛することか」でわかります。コリントの教会では、「偶像礼拝のために使った肉は食べていいかどうか?」が大問題になったようです。聖書の答えは「どちらが信仰の弱い仲間を助け愛することかで判断すべし」ということです。パウロの答えは、弱い仲間がつまづくようなことがあるならば、食べない、というものです。
13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
パウロは実は「偶像礼拝に使った肉であっても食べても問題ナシ」と思っています。なぜなら、まず、偶像は神じゃないし、偶像は力がないからです。
4 私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。
(詩篇 115:4-7)
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
偶像には力がないので、偶像礼拝に使った食材を食べても問題ありません。日本で言えば仏壇に供えたまんじゅうを食べても問題ないし、「○○神社」と焼き印の入ったおせんべいを食べても大丈夫です。ですが、問題は人への配慮です。心が動揺してしまう弱い人がいる前で、わざわざそれを食べるのは愛と配慮のない行為です。
1 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
7 すべての人にこの知識(偶像礼拝に使った食材でも大丈夫、という知識)があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
9 ただ、あなたがたのこの権利(偶像礼拝に使った食材でも大丈夫、という権利)が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
パウロは動揺する人がいるなら、それによって神様から離れる人がいるなら自分は食べない、と言い切ります。パウロは相手を愛すること、相手をイエス様に近づけることが基準です。もし、信仰の弱い人や聖書知識のない人が表面だけパウロのまねをして、もしも偶像礼拝へと堕ちてしまうなら、相手を滅ぼすことになります。
10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。(…中略…)
12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
自由なふるまいは必ずしも兄弟を愛することにはなりません。愛するために、僕らは自由を制限することもできます。
たとえば、高齢者でギターやドラムの賛美が苦手な思う人がいたら愛するために相手に合ったジャンルを選ぶことができます。聖書を学んで知識が増えていくと自由を手に入れますが、その知識や自由によって兄弟を踏みにじるなら罪です。神様の願いは人を愛し建て上げることです。
12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
聖書を学ぶことは大事です。でも、愛のない知識を増やしても意味がありません。
(1コリント 13:2)
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
今日も僕らが神様を愛し、人を愛する判断ができますように。自由でさえ喜んで制御できる愛を持ちますように。
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