教会で専門に神様のみことばを教える牧師や宣教師は、教会から生活費を受けるようにと聖書は教えています。ぶどう農家は自分の農地のぶどうを食べ、酪農家は自分の育てた動物たちのミルクを飲むのと同じです。みことばを教える人は教えられる人たちのささげ物から生活の糧を受けます。
7 いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。
旧約聖書時代、神殿で働く祭司たちもそれを補佐するレビ人たちも神様へのささげ物の中から生活費が与えらたし、そうするようにと書かれています。それは新約聖書の時代、教会の時代になっても同じです。ところがコリント教会の中にはそれを否定し、パウロを指導者として認めない派閥がおきていたようです。パウロはハッキリと自分が使徒であり、教会から生活費をもらう「権利」があるとかなり強い口調で繰り返します。
1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか
(…中略…)
3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。(…中略…)
9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。(…中略…)
13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。
教会の指導者が報酬を受けるのは当然だと聖書は言います。…ところがパウロは「権利がある!」と強く言いつつ、なんと彼はその権利を使いませんでした。
12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。
パウロが教会から報酬を受けない理由は2つあったようです。1つは「金のためにやってる」と誤解されてキリストの福音が伝わることの妨げがないようにするためです。そして2つめは、神様のことばを伝える仕事を委ねられたという誇りと報いが半端なくすごいからです。報酬があってもなくてもこの栄光は大きすぎます。
15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。
これは、僕ら教会にも2つの面で教えらることです。
1つめは、教会は牧師や伝道者を支え育てる役目があります。彼らが生活できるようにするのは教会の役目です。
そして2つめは、神様の働きに選ばれた人は、その役目の栄光ゆえに報酬があってもなくても天からの喜びと感謝に満ちます。報酬を受けないで神様の働きができるなら最高です。それは神様からの選ばれた人の特権です。
パウロは報酬を受けないという特権と誇りを「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」「どうしても、しなければならないこと」「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわい」とまで言っています。(15-16節)
僕らはすぐに見返りを欲しがります。与えたことと見返りのバランスとか、神様の働きさえこの世のものにしてしまいます。良いことをすると褒められたいし、認められたいし、感謝されたいです。もちろん僕らは互いに感謝と尊敬を具体的に言葉や形で現すべきです。が、もしもこの世で見返りがなくても、神様は見ておられるし、評価してくださっています。パウロはそこに誇りと喜びをもっています。
神様にお金を、力を、時間を、人生をささげましょう。それはどんなことよりも価値があり栄光があり喜びがある、そして誇りがある生き方です。誰にも何も与えられなくても、認められなくても主が喜んでくださっています。与える方が幸いです。
(使徒 20:33-35)
私(パウロ)は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
0 件のコメント:
コメントを投稿