僕らは無意識に「こうでなければならない」というルールを持っています。ですが、イエス様の聖霊を受けた人はそのルールを全部手放すことができ、全く新しい人生が始まります。それは「神様を愛したい、隣人を愛したい」というものだし、「一人でも多くの人にイエス様による救いを知ってほしい」と言うものです。パウロは、神と人を愛するためなら、それを伝えるためなら自分の考えやスタイルを捨てる、と言います。
19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
ユダヤ人には食物の規定、手の洗い、祭りへの参加などたくさんの律法がありますが、パウロはそれを守らなければならない、とは全然思っていません。…ですが、彼らにイエス様を伝えるためなら、律法や伝統を喜んで守り、彼らにお仕えすることができました。もし、そうしなければ、ユダヤ人たちはイエス様による救いの話を聞く前に「失礼なやつ」「こんな奴の話は聞きたくない」と思い、不必要な壁ができてしまうからです。
パウロは割礼(ユダヤ人の男の子が性器の皮を切り取る儀式)は必要ない、と何度も強く主張しています。そんな彼が、イエス様を伝えるために自分のアシスタントのテモテにわざわざ割礼を受けさせています。彼はイエス様のためなら何でもできる自由を持っています。
(使徒 16:3)
パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。
パウロの周りにはいろんな人がいました。例えば、野菜しか食べない、とか、伝統的に決められた特別な日にこだわる人もいました。そのような人をパウロは「弱い者」と言いますが、同時に彼らがイエス様を知り救われるためなら、自分も彼らに合わせる、と言います。
22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
イエス様を信じた人は人生の目標が決まります。それは、神様と人を愛することと、イエス様による赦しと祝福の知らせを一人でも多くの人に伝えることです。そのためにパウロは人生をかけています。そして、聖書は僕らにもこの目標のために人生をかけるようにと言います。アスリートは人生をかけて勝利を得ようとします。同じように僕らも人生をかけて栄光を得るようにと言います。アスリートが手に入れる冠は時間と共に消えていく冠です。でも、イエス様のために生きる人は消えることのない神様からの冠を受けます。
24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
キリスト教は「こうでなければ」と言うことはありません。神様を愛し、人を愛するためなら全ては自由です。
自分の経験、計算、計画、好み、考えに縛られる必要はありません。むしろ、神様のためなら、隣人が神様を知るためなら、どんなことにも従うことができるし、計画や考えを変える自由があります。
判断に迷うとき、どちらが神様を愛することか、人を愛することか、そして一人でも多くの人に伝えることか、自分に聞いてみるとわかります。自分の思い通りになるのが人生のゴールではありません。主を愛し、人を愛し、一人でも多くの人にイエス様を伝えるのが目標です。そのために戦う相手は自分のプライドや頑固さです。
26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
イエス様の御霊が僕らの体に住んでおられます。だのに、いまだに抵抗する自分もいます。怠けたいし、ラクをしたい自分もいます。聖書はアスリートのような訓練も必要だと言います。パウロは「自分のからだを打ちたたいて従わせます」とさえ言います。イエス様のために、隣人のために、自分を訓練することも必要です。自分のスタイルは捨てましょう。低くなることは天で評価されることです。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」とイエス様はおっしゃいました。(マタイ23.12)
そして、イエス様こそが一番低くなってくださり、この世に来てくださり、僕ら人間と同じ生活をしてくださった方です。
(ピリピ2.4-8)
それぞれ、自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現われ、自らを低くし、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
今日、手放すべきスタイル、こだわり、考えはあるでしょうか。訓練すべきことは何でしょうか。僕らの歩みが天で栄光を受けるものでありますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿