2023年3月1日水曜日

ルカ23:32-43

 ルカ23:32-43

神様は罪人たちを「かわいそうに」と上から見ている方ではありません。死んでいく罪人側に立ってくださる方です。そっち側というよりも、さばきをうける当事者そのものになって死んでくださる方です。
32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
イエス様が呪われる罪人として扱われるのは、旧約聖書の預言の実現です。十字架の処刑は次のように預言されていました。
(旧約聖書 イザヤ 53:12)
彼(イエス様のこと)が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼(イエス様)は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
預言の通りにイエス様は十字架の上で罪人として殺されます。しかも、その苦しみの中で自分を殺す人たち、そむく人たちのために祈ってくださいます。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
この祈りは今日もイエス様が祈っていてくださる祈りです。「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(新約聖書ローマ8.34)イエス様は今日も僕らのために祈ってくださっています。ぜひ、次のカッコに自分の名前を入れてみてください。
「父よ。(     )をお赦しください。(     )は、何をしているのか自分でわからないのです。」
これが今日も祈ってくださるイエス様の祈りです。しかも、上からではなく、血だらけになって、罪人の側になり祈ってくださいました。イエス様の祈りは僕らの模範です。ぜひ、上の祈りのカッコに赦せない人の名前を入れて祈ってみてください。
一方、兵士たちは死刑囚には興味がありません。何人死のうとかまいません。彼らが興味があるのはお金になるものだけです。これが私たちの本性です。
34 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
兵士たちが着物をくじで分けるのも、預言の実現です。旧約聖書に「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」という預言が書かれています。(詩篇22.18)
民衆も指導者たちも兵士たちも、そして一緒に十字架に貼り付けにされた囚人も苦しむイエス様をあざけります。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(…中略…)
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ほとんどの人がイエス様をバカにし、笑いものにし、苦しめました。その中で、一人だけイエス様を信じる人がいました。その人は一緒に死刑を受けて苦しんでいる囚人の一人です。
「自分は正しい」と思う人はイエス様を笑いものにし、「自分は罪人だ」と思う人はイエス様を信じて赦しを求めます。だから、自分のみじめさを自覚している人は祝福されます。イエス様は「心貧しいものは幸いです」とおっしゃいました。(新約聖書マタイ5.3)
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
彼は自分の罪の汚れと醜さを認めました。そして罪には裁きがあることを認めています。また、イエス様は罪のない聖なる方であり、イエス様がすべてを支配する御国の王であることを認め信じました。
彼は何も良いことをしていません。洗礼も受けてません。ただ、イエス様にあわれみを求めただけです。
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエス様はそんな彼に「パラダイス」を約束されました。これは王である神様と一緒にいる園、という意味です。罪のない最初の世界はエデンの園と呼ばれました。全く罪のない天の国に彼は入ります。
僕らも同じように神様に受け入れらパラダイスに入ります。その理由はただ一つ、イエス様の十字架の犠牲があるからです。
神様に受け入れられるためには、良いことをしなければ、とか○○をしなければ、とか、修行をしなければ、ということは一切ありません。イエス様の十字架の苦しみは、神様にとって十分な犠牲です。
(新約聖書 ヘブル 10:18)
罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血(十字架の処刑)によって、大胆にまことの聖所(神様のいるところ、天の御国)にはいることができるのです。
僕らは「もっとこうでなきゃ」とか「もっとこうあるべき」と思いますが、イエス様はあの苦しみによって満足しています。
(旧約聖書イザヤ 53:11)
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
今日もイエス様は罪人を愛し、罪人の側に立って「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ってくださっています。イエス様の十字架がすべてであり十分で完ぺきです。それに加えるものは何もありません。
あの十字架は僕のためです。そして、僕らを苦しめる人たちのためです。
僕ではなく、イエス様が苦しんで赦してくださいました。今度は僕らの番です。敵を赦し、敵のために祈りましょう。
(新約聖書 ルカ 6:35-37)
ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。(…中略…)あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
(新約聖書 1ペテロ 2:21)
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

0 件のコメント:

コメントを投稿