2023年3月3日金曜日

創世記32.22-33.20

 創世記32.22-33.20

神様は僕らを成長させるために苦しみや悩みに会わせることがあります。苦しみや悩みを通して僕らがますます神様に向かうようになるためです。
ヤコブは兄であるエサウに恨みと怒りを買い、殺されるのを避けて20年間もおじさんラバンのところにいました。ヤコブにとって兄エサウの存在は恐怖です。自分を傷つけ殺すかもしれない存在です。そんなヤコブに神様は「ふるさとに帰りなさい」「わたしはあなたとともにいる」と言われます。
それでも、兄に近づくことは恐怖です。しかも、兄エサウが「あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来る」という知らせを聞きます。(32.6) ヤコブは恐れおののきました。(32.7) ヤコブは「400人で自分たちを殺しに来る」と思い込みました。ヤコブは神様に祈り求めます。
祈っても祈っても怖くて仕方がありません。神様が『わたしは必ずあなたをしあわせにする』ということばは聞いています。でも、実際には恐怖です。神様のことばと自分の妄想との間で彼は揺れ動きます。
悪い想像と恐怖のあまり、ヤコブは600頭近くの家畜の群れを3組作って兄に送ることにしました。莫大なプレゼントをすることで怒りを和らげようとします。
ヤコブは人間的な考えで危機を乗り切ろうとします。しかし、この苦しみは彼が霊的に成長するための機会です。ヤコブは夜中に一人、「ある人」と戦いました。「ある人」とは神様です。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
伝統的な解釈ではヤコブは一晩中神様と祈りで格闘したと言われています。でも、単なる祈りではありません。祈りは霊的な会話だけでは終わりません。祈りは僕らの心にも体にも生活にも変化をもたらします。神様はヤコブの股関節を外されました。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
ヤコブは一晩中自分の願いを神様に押し付けようとしています。エサウが自分を殺さないように、自分の願いが叶うように、というのが祈りでした。でも、神様のご計画はヤコブがへりくだり、弱さを認め、神様にも人にも降参することでした。
神様は強制的にヤコブの股関節を外します、彼は足の力が抜け、ゆっくり歩くことしかできなくされます。これからエサウに会っても、もう逃げることができない体にされました。足に力が入らないヤコブはそれでも神様にしがみつきます。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
ヤコブは弱くされました。聖書の他の箇所によると「泣いて、これに願った」(旧約聖書ホセア12.4)とあります。ヤコブは弱くされ、泣いいて神様にすがりました。ヤコブは神様にすがり、神様と格闘する人となりました。「ヤコブ」とは「押しのける」という意味があります。「イスラエル」とは「神様と格闘する」という意味です。今までは人を押しのけ、人の計画ばかり考える人でしたが、これからは神様と格闘する人にされます。
26 ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
相手に祝福されることは、相手の前にひざまずくことです。
神様に祝福されることは神様の前に自分の計画や願いを手放して、ひざまずくことです。人に祝福されることは、人の前にはひざまずくことです。自分の考えを相手にも神様にも押し付けることは祝福にはなりません。
神様と格闘して勝利することは、自分がひざまずき、自分が弱いことを認め、自分の計画や願いを手放すことです。自我が砕かれることが勝利です。自力で乗り切ることはできない体にされたことが完全な勝利であり祝福です。今後は神様にすがるしかありません。
30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
苦しみは僕らを神様に向かわせます。そして祈りは僕らの傲慢さを砕きます。そして砕かれた人は他人に対しても謙遜にさせられます。彼は逃げないで、誰よりも先に進み、兄エサウの前にもひれ伏しました。
1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。(…中略…)
3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
ヤコブは神様との格闘の末、兄エサウにも頭をさげることができる人に変えられました。もし、今日僕らがイヤなこと、うまく行かないことがあるなら、全部が祝福のイントロです。試練を通して僕らはイエス様のように、謙遜に人に仕えるしもべの姿に変えられていきます。イエス様は罪人のために十字架で命まで捨てて下さる方です。
4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
兄エサウがヤコブを受け入れてくれたことは、神様がヤコブを変えてくれたことと重なっています。二人は和解します。
10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。
11 どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
神様は僕らを成長させるために苦しみや悩みに会わせます。神様に砕かれ、謙遜にさせられたヤコブに、兄との和解というプレゼントさえも与えられます。
祝福とは、自分の傲慢さが砕かれることです。
今日の僕らの苦しみを通して、相手ではなく、神様が変わるのではなく、僕らが変えられていきます。
これを読む方々がますます祝福されますように。

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