2023年3月3日金曜日

創世記34.14-31

 創世記34.14-31

抱えきれない悲しみや苦しみに会う時に僕らは怒ります。信仰者であっても、神さまのことばや教えはどこかへ行ってしまい、自分の感情や計算だけが頭を占領しがちです。そして相手に仕返ししたい、懲らしめてやりたい、時には殺してやりたい、と思うのが人間です。
それを行動に移すなら、さらに相手の怒りを呼び、復讐の連鎖は終わることができなくなります。最後に正しく罪を裁くのは神様だけです。僕ら人間の罪の評価やさばきは不完全です。
だから、聖書は復讐は神様にお任せしなさい、と教えます。悪に対しては善で返しなさい、と。
(新約聖書 ローマ 12:19-21)
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ヤコブの娘ディナがその土地の男に強姦されました。それを聞いたディナの兄たちは怒って復讐を決意します。犯人だけでなく、その町の男性を皆殺しにする計画です。表面は平和的な交渉を装っていますが、実は割礼を利用した殺害計画です。
14 彼らに言った。「割礼(神様の子どもであるしるし)を受けていない者に、私たちの妹をやるような、そのようなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとっては非難の的ですから。
15 ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。
16 そうすれば、私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちがめとります。そうして私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。
17 もし、私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないならば、私たちは娘を連れて、ここを去ります。」
ユダヤ人たちは神様に祝福された子どもとしてのしるしを体につけています。生まれて8日目に男子は性器の包皮を切り取ります。これが「割礼」です。
これを大人がすると、3日間は痛くて動けないそうです。
兄たちは神様の祝福の儀式を復讐のために利用しました。
男性たちが動けない間に全員を殺します。
25 三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。
26 こうして彼らは、ハモルとその子シェケムとを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。
彼らの怒りは犯人だけを殺すことで収まらず男性を皆殺しにします。しかも、女性も子どもも財産も略奪しました。誰もこの怒りを止めることができません。この怒りと略奪は「妹の屈辱を晴らすため」ということで正当化され、さらに欲もむさぼりもむき出しで、やりたい放題に奪いつくします。
27 ヤコブの子らは、刺し殺された者を襲い、その町を略奪した。それは自分たちの妹が汚されたからである。
28 彼らは、その人たちの羊や、牛や、ろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、
29 その人たちの全財産、幼子、妻たち、それに家にあるすべてのものを、とりこにし、略奪した。
これが僕ら人間の本性です。一つの悪は次の悪を生み出し、一つの暴力は次の暴力を生み出し、怒りは怒りを生み出し、復讐は復讐を生み出します。それは雪だるま式に大きくなり、さらには罪も貪欲さも加わります。人間には止めることができません。
この虐殺によってヤコブの一族はこの地域全体から反撃される危険が大きくなりました。それでも兄たちはこの虐殺は正当だといいます。
30 それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」
31 彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」
彼らの心の中は恨み憎しみ、そして自分の正義感で一杯です。神様のことばや教えは入るすき間がありません。正しく真実な善悪の判断は神様のものであり、善悪を人間が決めつけることは本来できません。善悪を人間が手に入れ、決めつけるようになったことが罪のはじまりです。(創世記3章) 神様を無視して善悪は決めつけることは人間の高ぶりであり傲慢です。
割礼は神様の子どもとなるための神様からの儀式でした。でも、僕ら人間は怒りに支配されると神様のことばや教えさえも自分の下に置き、自分のためにみことばや儀式を恨みや欲望のために「利用」します。
また、割礼を受け入れたこの町の人たちも自分たちの損得だけがすべてです。犯人シェケムはこの町のリーダーでした。彼は神様への信仰はありません。でも、ディナを手にいれるためにその割礼をします。また、町の人たちに割礼をすればヤコブ一家の財産が手に入ると説明します。
20 ハモルとその子シェケムは、自分たちの町の門に行き、町の人々に告げて言った。
21 「あの人たちは私たちと友だちである。だから、あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。(…中略…)
22 私たちのすべての男子が割礼を受けることである。
23 そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。
ディナが強姦された事件のあと、関係者すべてに神様に向かう祈りも神様のことばへの信仰も消えてしまったようです。怒りは僕らを罪へと誘導し、怒りは僕らを支配する力があります。怒ることは罪ではないし、悪でもありません。ですが、怒りは罪や悪へと導きやすいのも事実です。だから聖書は怒っても罪を犯さないようにと教えます。人が怒りに支配されることを悪魔は喜びます。
(新約聖書 エペソ 4:26-27)
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。
(新約聖書 ヤコブ 1:20)
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
被害を受けたとき、怒ったとき、傷つけられたとき、その時こそ神様のことばの前に立ち止まりましょう。神様こそが僕らの王様であり、支配者であり、正しいさばきをしてくださいます。「怒り」は私たちの王様でも支配者でもありません。「不安」も僕らの王様ではありません。また「自分の正義感」も王様でも支配者でもありません。
僕らの王は神様です。僕らを支配してくださるのは神様です。この神様のことばに自分を明け渡しましょう。
神様のことばは僕らの計算をはるかに超えています。
怒りや不安は心の王座から降りてもらいましょう。そして、イエス様を王座にお迎えしましょう。イエス様こそ平和の王、正義の王、人を本当の平和と祝福へと導くことがおできになる唯一の方です。この方以外には救いはありません。
(使徒 4:12)
この方以外には、だれによっても救いはありません。

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