2023年3月3日金曜日

イザヤ書53章

 イザヤ書53章

何かトラブルが起こると、僕らは「自分は正しい」「自分は悪くない」と頑張ります。また逆に「自分は悪い、自分は最低」と自分を責める時もあります。
ですが、聖書は両方とも否定しています。聖書の教えは誰が正しい人か悪い人かではありません。聖書の話の中心は血だらけになって死んでくださったイエス様です。イエス様は逮捕され、弟子たちにも見捨てられ、殴られ、唾をかけられ、ののしられ、裸にされ、鞭で半殺しにされ、十字架で公開処刑をされました。
2 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
人々に裏切られ、見捨てられるイエス様の話を聞くと、僕らは「かわいそうに…」と思うだけでやっぱり他人事です。多くの人は顔をそむけます。でも、あの処刑は僕らの身代わりであり、僕らへの神様の怒りとさばきだと言います。他人事ではありません。僕の姿、あなたの姿です。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
聖書の中心はイエス様の十字架の処刑です。残酷な姿です。
そして、あの死刑は僕らの身代わりです。
僕らはみんな神様より自分を大事にします。神様から離れたがります。
羊は飼い主から離れたら、自分では戻れず死んでしまうそうです。同じように、僕らが神様から離れるなら、その先は死です。だのに、僕らは神様より自分です。まるで自分から墓場と神の怒りと裁きの道へと向かっているようです。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
罪とは神様から離れていくことです。その先は神の怒りと死に向かうだけです。イエス様はその裁きと怒りを引き受けてくださいました。
イエス様のあの悲惨な姿は僕らの罪と神様の怒りの深刻さを現しています。あの十字架の残酷な姿が他人事ではなく自分のためだとわかった時、僕らは何も言えなくなります。イエス様の顔は拷問で変形していたようです。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。
・・
52:15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。
王たちは彼の前で口をつぐむ。
神様の怒りと裁きは今日もあります。そして、僕らのどんなに罪が大きくても、赦しは完璧です。十字架のイエス様は僕らが赦されるための唯一の方法でありいけにえです。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
イエス様を信じるとは、自分への神様の怒りと裁きがもう終わったことを信じることです。どんな人でも赦されます。そして義(無罪)とみなされます。聖書が伝えているのは誰が偉いか正しいかではありません。イエス様の血だらけの苦しみです。あの苦しみによって僕らは赦されました。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
このイエス様の苦しみを知る時に、僕らはひざまずき、この方に感謝するしかないことを知ります。
イエス様の血だらけの姿の前に、自分が正しいとか、相手が悪いとか、そんな話はできません。ただ、イエス様の十字架によって罪は赦されました。ただ、それだけが救いです。それだけが僕らの安心です。それ以外に救いはありません。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
どんな罪も赦されます。神様は無罪と宣言してくださっています。安心しましょう。そして、他人をさばくのも意味のないことです。もうやめましょう。誰が偉いか正しいか。イエス様の血だらけの姿だけが全てです。
(新約聖書ガラテヤ 6:14)
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

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