ヨシュア5.13-15
僕らは何かをするとき、ぐるぐると考えを廻らせます。あの人は協力してくれるか、こっちの人はどう思うか、どちらが損か得か、どうすれば正解か、などなど想像するだけで疲れます。ヨシュアは神様が与えてくださる町エリコを占領する、と言う大変な任務がありました。神様が与えてくださるのは決定です。でも、実際に戦うのは自分です。リーダーとしての緊張や重圧はあったと思います。どのようにしようか、と考えているときに突然ある人が剣を抜いて自分の前に現れました。相手は剣を抜いています。臨戦体制です。緊張の上にさらに緊張が走ります。ヨシュアはとっさに敵か?味方か?と問います。
(13)
ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」
その人は「わたしは主の軍の将」といいます。ヨシュアはとっさに平伏しました。目の前に現れた人が本当の将軍でした。自分ではありませんでした。ヨシュアはひれ伏して「何をこのしもべに告げられるのですか。」と聞きます。ヨシュアはもう一度自分はリーダーではなく神様の前では「しもべ」「奴隷」であることを自覚します。多くの註解者たちはこの人を天使ではなくイエス様ご自身ではないか、と解説します。
(14)
彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」
主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
ヨシュアは将軍ではありませんでした。彼は神様の前ではしもべであるべきでした。その人が言ったことは「あなたの足の履き物を脱げ。」です理由は「あなたの立っている所は聖なる場所である。」からです。つまり、神様の前にいるから、その汚い履き物を脱げ、と言うことです。ヨシュアはひれ伏します。さらに相手は靴を脱げと言います。その意味は、自分の今までの経験や業績やそのような物を全て放棄せよと言う意味です。靴がなければ戦えません。しかし、神様の前では自分の武装を完全に解除せよ、と言う意味がありました。また、聖なる神様の前では自分が何をした、どんな力がある、どんな作戦があるか、そのような自分の権利や考えや立場を全て捨てよ、と言う意味です。
聖なる神様の前に近づくときに、僕らは汚れた自分の作戦や罪の混じった経験を捨てる必要があります。モーセも指導者として任命されるときに同じように神様に言われました。(出エジプト3.5)汚い靴を履いたままでは、聖なる使命の地には入れません。
「そのままでいいよ」と言う神様ではありません。「そのままでは神様に近づけない」とおっしゃる神様です。汚れた靴を脱げ、とおっしゃる神様です。僕らはみんな汚れがあります。罪があります。高ぶりがあり、神様より自分の作戦で何かをなそうとしがちです。そんな僕らは聖なる血で洗われなければなりません。イエス様だけが僕らの罪を洗いきよめてくださる唯一のお方です。イエス様の十字架の犠牲がなければ神様に近づくことはできないし、神様の聖なる働きをすることはできません。
エリコと言う聖なる土地を与えてくださるのは神様です。その前に神様は罪と呪いを過ぎ越すために身代わりに羊が殺されたことを思い出さてくださました。(ヨシュア5.10)主の働きに参加する第一歩は僕らが主を恐れ、主の前に自分を捨て、明け渡すことです。殺された子羊イエス様によってだけ僕らは洗われました。これからは自分の計算、計画、経験でなく(3Kと言うそうです)100パーセント自分を捨てて、神様ご自身の御霊によって教えられ、従い、用いられます。
今日も平伏しましょう。汚れた靴は脱ぎ捨てましょう。自分の計算や計画は手放しましょう。神様こそが将軍であり全てです。ハレルヤ!
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