2023年7月6日木曜日

1コリント4.1-13

 1コリント4.1-13


人は他人からどう思われているか気になります。よく思われたいし、受け入れられたいです。批判されたりののしられたりすることはキツいです。自分で自分にダメ出しして落ち込み、思い出しては自分を呪う人もいます。ところが聖書は人からの評価は「非常に小さなこと」と言い、パウロは「私は自分で自分をさばくことさえしません。」と言い、(3)「何についても先走ってさばいてはいけません。」と言います。(5)大事なのは神様からの評価だけです。



(3-5)

3,しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

4,私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

5,ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。



神様だけが他人にも自分にもわからない隠れたことを全て明るみに出し、正しくさばく方です。だから僕らは「あの人はこう」「この人はこう」「自分はこう」とは言えません。人が最悪の評価をしても、僕らは神様に愛され、喜ばれている子どもです。(マルコ1.11、ヨハネ15.9など)人から断罪されても神様の前では無罪です。(ローマ8.1など)神様の宝として、しみも傷もない聖なる栄光の存在であることは確定済みです。(エペソ5.27)もちろん欠点はあるし、工事中です。それでも神様は「聖なる者」と呼び、「最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。」(1.8)だから、「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。」「あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。」と言います。(ローマ14.4、14.10)裁きも称賛も人からではなく、神様から与えられます。(5)


僕らの最大の問題は、自分が裁き主になろうとすることです。悪魔は昔から僕らに「目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」(創世記3.5)と誘惑します。そう言われるとその気になって「私にはわかっている」「あいつはこうだ、こいつはああだ」と上から目線で裁きます。笑ってるのは悪魔だけです。コリント教会は裁きあい、派閥争い、無秩序、離婚、淫らな行いで大混乱していました。全ての根っこは高ぶりです。


信仰を持つことは賢い人、わかっている人、強い人になることではありません。イエス様と一緒に死んで、イエス様と一緒に生きる人になることです。イエス様が罵られるときには、僕らも罵りを受けます。イエス様が迫害されるときには僕らも迫害されます。パウロは自分を捨てました。そして自分を御霊の住まいとして明け渡しました。この世から見下される人となりました。欲しいのはこの世からの評価ではなく神様がくださる栄光です。



(11-13)

11,今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、

12,労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、

13,中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。



今日も人から攻撃され裁かれるかもしれません。でも大丈夫です。それは「非常に小さなことです。」(3)大事なのは神様からの評価だけです。称賛は人からでなく、神様から来ます。人に気に入られることではなく、神様に喜ばれることを選びましょう。ののしられても祝福し、迫害されても耐え忍び、中傷されては優しいことばをかけましょう。僕らにはイエス様の御霊が住んでいます。神さまだけが称賛を与えてくださる方です。(5)大丈夫です!


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