「放っておかない神様の愛」1コリント5章 7/9
1●sexは聖なるもの?淫らなもの?
(セックスは聖なる神様の表れ)
2 ●淫らな人とどう付き合えばいい?
(敵とは見なさず注意して愛する、それでダメなら完全に切る)
3●完全に切るとどうなる?
(救われる!)
●sexは聖なるもの?淫らなもの?
(セックスは聖なる神様の表れ)
性的な交わり、セックスと聞くと淫らなイメージですか?そんなこと教会の説教で言うの?って感じでしょうか。それとも、美しくきよらかなものでしょうか。聖書が教えるsexは素晴らしい、神様のかたちの表れです。僕らが淫らで忌み嫌うべきもの、教会で話すべきではない、と感じるのは、神様の素晴らしい表れを肉欲のために使うからです。結婚相手以外のsexは全て罪であり、盗みであり、律法では徹底的にそのような人を死刑にせよ、と言うほど忌み嫌うべきものです。結婚前だったらいいですか?旧約聖書は徹底的にそれを裁き、処罰し、そのような行為を消し去るように教えます。それほど、二人の男女が一つになることは、神様にとって清く美しい交わり、一体化は守るべき聖なるものです。
テレビで見たんですけども、中国の告発の動画でした。お弁当の宅配をバイクで運ぶ動画でした。その人がバイクを止めて、お客さんのお弁当を開けて少し食べて、また、他のお弁当も開けて、少し食べて、バレないように綺麗に蓋をもどして届けていると言う動画だったんですね。で、それが撮られて拡散されて大変なことになった、という話です。その結果、会社も本人も制裁を受けて、多くのものを失いました。その番組でありえないとか、不衛生とか気持ち悪い、とか、ぼろくそに言われていました。
その人はお客さんを大切にする気持ちはありません。食品衛生の意識もありません。自分の会社のことまで考えていません。自分の欲の赴くまま、バレなければいい、と思ってたようです。自分のお弁当注文して食べればいいのに、お金は払いたくない、と言うケチで、他の人のを盗んで食べていた、と言う話です。みなさんどう思いますか?
同じように、他の人の妻を食べる、他の人の夫を食べる、性欲を満たすために、自分のものではない、妻でない人と性関係を持つことを、聖書は、奪い取る者、と言います。淫らなことと並んで、書かれています。「10,それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、」神様の願いより肉欲を優先、と言う意味で偶像礼拝者、と言います。
エペソ5.5
不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――
モーセの十戒も姦淫と盗みはセットで教えられています。
出エジプト20章
14,姦淫してはならない。
15,盗んではならない。
お腹がすいたら食べるのと同じなんだから、性欲も満たすためには合意さえあれば誰と寝てもいい、と言う考えがコリント教会の時代にありました。合意さえあれば盗みではないし、貪欲ではない、という考えです。斎藤さんに聞いたら、高校では毎年必ず性教育のイベントがあって、そこで毎年教えるのが避妊具の使い方だそうです。中高生は毎年毎年避妊具の使い方を習っているそうです。しかも学校で。先生からです。つまり、学校としては合意の上でなら、誰としてもいいよ、ちゃんと避妊具を使ってしっかりやってくださいね、と言うことを教え続けているようです。
体は体、結婚は結婚、両者は別物、と言う考えがあります。これは当時教会の中にも入ってきていて、心で神様を信じていれば、体は汚れても問題ないし、別物だよ、と言う考えです。霊肉二元論、と言うそうです。霊的なことは大事、信仰は大事、だけど、体のこととは別、と言う考えです。だから、6章に書かれていますが、売春婦や遊女と寝るのも悪くはない、それはそれ、と教会でも黙認されていたようです。
そんな、コリント教会の皆さんにパウロは手紙を書きます。実は書きながら怒りと悲しみがあったことがわかります。
4章
21,あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。
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1,現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
父の妻、というのは、普通はお母さんのことを言うんだけども、ここでは、母とは書かず、わざわざ父の妻、と書いてあります。注解書で調べたら、おそらく、この家では母親が亡くなって、しばらくしてお父さんは再婚したのだろう、と言う説が有力です。それで息子が新しくきた再婚相手の父の妻、若い女性だったかもかもしれない、その人と性的な関係を持っている、ということです。「しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行い」と書いています。
教会中が知っていることだけど、みんなの反応はどうだったか。教会は黙認です。プライベートなこと、性的なことに介入すべきではないと判断しました、それはそれとして、彼が礼拝に来て、みんなと交わりを持ってもいいし、そのことには触れないでおこう、と言うのが教会の対応です。首をつっこまないで、そっとしておこう、と言う対応です。パウロが悲しんでいるのは、その淫らなことも問題だけど、それを悲しむこともなく、放っておく状況です。
2,それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。
(●淫らなことが神様の怒りと悲しみである理由)
淫らなこと、人の妻を盗むことを悲しまないことを「思い上がっている」と言います。そのことを問題にしたり、注意するのも大変なので、そっとしておくと言う傲慢です。
※例
教会の献金、集めて、2階で会計の人が数えて記帳して保管してくれます。神様に捧げられた神様のお金です。
これは、ちょっとぐらいなら、勝手に使ってもいいでしょうか? 誰かが集まった献金を、毎回、1000円、2000円と自分をお財布に入れておくのがわかったら、みなさんは見て見ぬふりをしますか?そこには触れずに、交わりを続けますか?
100円ぐらいなら盗んでもいいですか?10円くらいならいいですか?
盗んでいることがわかったら、100円であっても10円であっても、放置せず、問題にし、悲しみ、取り組むべきことです。
罪は罪、盗みは盗みです。そのお金は神様のものだから。それは神様に対する罪であり、教会に対する罪です。
その兄弟を愛することは、愛を持って柔和な心で、敵とは見做さず、その人を守るために止めるように言いに行くことです。悔い改めたら、兄弟を得たのです。
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淫らなことは神様のものを盗むことです。それは、クリスチャンの体がイエス様の体の一部だからです。
パウロは、このコリント人の手紙で何度も、僕らのこの肉体がキリストの体の一部だ、と言い、この肉体が、聖霊の住まいだと繰り返します。体と心は別、ではないのです。その肉体を使って男女が一つになることは、神様に似せて作られた人間の素晴らしさです。夫婦がsexをすることは、二人が一つの体になり、一つの霊となる素晴らしい神様の現れです。
6章。
15,あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
16,それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
17,しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
18,淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
19,あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
18節「淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」体とはキリストの体です。15節「あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。」
だから、男女2人が1つになる事は人間が一番神様のかたちに似ている、美しく素晴らしいところです。
創世記1章
27,神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
エペソ5章
31,「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32,この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
まずは、僕らがイエス様を信じて、一人一人がキリストの体として繋がっていくことと、夫婦が合体して一つの体となっていくことが重ねて言われています。「奥義」とは、神様の素晴らしさが表される、と言うことです。男女が一つになることは神様の素晴らしさが現れる素晴らしく、偉大なことです。男女が一つになることは、キリストと教会が一つになることの表れです。
イエス様を信じることは、心だけ問題ではなく、体のことそのものです。
僕はみーこを心から愛しているよ、と言って、体は別だから、と言うのはあり得ないことです。心と体は一つです。
この手がイエス様の手になり、この足がイエス様の足となり、私の体が神様のものとなっていくことです。同じように、妻の体は夫のものです。夫だけのものです。結婚は相手に献身することです。捧げる身、と書いて献身です。夫の体は妻のものです。
7章
4,妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
そのように、僕らの体はイエス様と繋がる器官です。
6:15
キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
16,それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
教会のメンバーが、キリストの体の一部を使って人が父の妻と淫らなことをしていて、それを放置していいるのは、神様にとっても教会にとっても冒涜だし、全体を汚すことです。だからちゃんと対応すべきことです。じゃ、どんな対応をすべきなのか?
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●淫らな人とどう付き合えばいい?
(敵とは見なさず注意して愛する、それでダメなら完全に切る)
パウロは彼を付き合わないようにといいます。交わりをしてはならない、切るようにといいます。
2,それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。
9,私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。
すでに、このことは以前から言っていたはずです。
イエス様はいきなり切るのではなく、愛を持って柔和な心で注意しなさい、とおっしゃいました。
マタイ18章
12,あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
神様の願いは、一人も失わないで神様のところに戻ることです。だから他の99匹の羊を残してでも探し、取り戻すのが神様の愛です。
ヤコブ 5章19節
私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、
20,罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。
イエス様はまず、一人で行って注意しなさい、とおっしゃいました。敵とは見做さず、愛を持って、柔和な心で、と書かれています。
1人で言って受け入れないなら、2-3人、それで拒否し、淫らなことを続けるなら、教会全体の問題にしなさい、と聖書は言います。それでもダメなら、全ての交わりは禁止です。食事もしない、連絡もしないことです。
罪を放置することは愛のなさです。放置するのは残酷です。見殺しです。聖書はそれを知って対応しないことが思い上がりだ、と言います。傲慢さとは愛のなさです。愛することは、敵とは見做さないで、その人が滅びないために忠告することです。動機は愛です。しかも、わたしたちでなく、御霊の愛、イエス様の愛です。イエス様が99匹を残してでも取り戻したいからです。動機はイエス様の愛です。
僕はいつもこのことを神様に問われていると思います。僕の肉の性質はことなかれ主義で、僕の中には愛がなく、冷酷で、自分さえ良ければいい、と言う傲慢があります。いつも問われます。クリスチャンで、罪を犯し続ける人にちゃんと愛を持って向き合っているのか、と。
愛することは放置しないことです。それでもその人は忠告を無視し、避け、罪を正当化するかもしれません。最終的には切りなさい、と聖書は言います。
11,私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
最後は全ての付き合いを止めることです。パウロの中ではすでに付き合いを止めると判断した、と書いています。教会の人たちと交わり接見禁止です。
3,私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。
離れていますが、そこにいるように私はもう彼を裁いています。判断をした、決めた、ということです。しかも、それはイエス様の権威によることです、と強くいいます。
4,すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、
5,そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
全ての付き合いをやめることは、「サタンに引き渡した」と表現します。
●完全に切るとどうなる?
(救われる!)
その目的は2つあります。1つは本人が救われるため、そしてもう一つは教会のためです。
1、本人のため
5,そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
不思議な表現だけども、サタンに引き渡ことが彼の救いになるといいます
サタンのことを、聖書はこの世の神、この世の支配者といいます。あらゆる罪の創始者、罪と悪の王であるサタンに引き渡しました。つまり、お望み通りさせる、ということです。止めないよ、どうぞ、ということです。
※
僕が悔い改めてイエス様を初めて信じた日、それはミーコが僕との関係を切った日です。
「えんちゃんはサタンに取り憑かれている」「一生サタンと仲良くしたらいいんじゃない」私は神様と一緒に生きるから、あなたはどうぞ悪魔と生きてください、と言いました。僕は、その日、本当に突き落とされた感じがしました。それによって救われたい、助かりたい、と思うようになり、生まれて初めて祈りました。このエピソード、詳しくは個人的に聞いてください。
交わりを切って、サタンに引き渡すことが、救いになると聖書は言います。
イエス様は天のお父さんは放蕩息子の帰りを待つお父さんのようだ、と言いました。
放蕩息子はのお父さんの財産をくださいと言った時に、お父さんはそれを止めませんでした。欲にまみれて女性に溺れ酒に溺れていくことを止めずに、引き渡しました。彼は家を出て、やりたい放題です。
放蕩息子はすべてを失いました。豚の食べる餌を食べたいとさえ思い、その時に我に帰ってもう一度お父さんのとこに帰ってきたあの悔い改めは、家出をして、全てを失ってどん底を知ったからです。罪に溺れることは苦しみです。でも、本当に彼が神様に選ばれた魂なら、最後には、彼は傷だらけになりながら、火の中をくぐるようにして救われます。
繰り返しますが、サタンに引き渡す最終的な目的は、その人が救われることです。
放蕩息子のお父さんは、彼をやりたいように引き渡したけど、いつ帰ってくるかと、毎日迎えに出ていました。
彼が滅びるのが目的ではありません。切るのは、救いのためです。
教会と縁が切れた人は他人のものを盗み続け、肉欲に性欲に仕えつづけます。欲望のままに生きて、そこに神様からの祝福も喜びもありません。罪は虚しいものです。どん底を味わって肉が、罪が滅びるためです。そして、聖書は「罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1.15)と言います。彼は欲望のまま、必ずいつか死にます。それでも、神様が選んだ魂ならば、救われます。
2、教会のため
もし、淫らなことを楽しんでいる人が教会の交わりに参加し、昨日もしちゃったよお、お前もやってみろよ、と大丈夫だよ、と話をしているなら、そのような人とは一切関わってはいけないのです。ウチの教会はこのぐらいの淫らなことは、このくらいの盗みは大丈夫、あの奥さんこんなことさせてくれるよ、と言う類のどんな話も、口することさえしてはならない、と聖書は言います。火事が起きているのに、小さい炎だから放っておこう、見ていよう、と言うのはだめです。必ず大火事になります。
6,あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。
小さなパン種は、全体を膨らませます。パン種とは、罪のことです。小さな罪を放置するなら、全体を汚します。
がんを放置すると転移するから切ります。
9,私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。
11,私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
(●教会は罪人を招く?追い出す?)
7,新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
古いパン種とは罪のことです。すっかり取り除きなさい、と言います。すっかりです。
ちょっとはいいよ、ではなく、すっかりです。あなた方は種なしパンです。つまり、イエス様によって完全にゆるされ無罪とされた人たちです。
イエス様は、罪人を癒し、罪人を赦し、そのために身がわりに十字架の血を流してくださいました。
イエス様のあの十字架の血は、すべての罪から私たちを清めます。私たちが、過去にどんな罪があっても、どんな人と性関係を持っても、イエス様の血は私たちの罪を清めます。神の怒りと呪いは、私たちにでなくイエス・キリストに注がれ、イエス様が身代わりに殺される子羊となって死んで下さいました。
これが福音です。皆さんが過去のどんな罪も、性的な罪も無罪です。完全無罪です。何度もいます。皆さん無罪です。あなたの罪と不法二度と思い出す事はないと言うのが福音です。
イエス様が苦しみ、イエス様は恥をうけ、イエス様は捨てられ、イエス様が呪われて、あなたが救われました。せっかくイエスキリストが全てを捨てて、犠牲になって酷い死に方をされたのに、それを忘れ、もう一度盗み、貪り、淫らなことをし、他人のものを盗み、他人の家庭を壊し、自分の家庭を壊すことを選ぶならば、それはイエス・キリストに対する傲慢であり高ぶりです。
イエス様は罪人を招いてくださいます。
だから、教会は罪人を招きます。イエス様が苦しんでくださったよ、と伝えるのが福音です。
同時に、イエス様の苦しみ、イエス様の血を無視し、イエス様の愛の十字架を無駄なこと、軽いこと、イエス様の十字架が意味のないものとして振る舞うならば、その人は兄弟として交わってはならない、と言います。
外で自由にやってもらいなさい、サタンに引き渡しなさい、と言います。
10,それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。
11,私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
12,外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
13,外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」
●適用
イエス様は、もし目があなたをつまずかせるならえぐり出して捨てなさい。右の手があなたをつまずかせるなら切って捨ててしまいなさいと教えました。文字通り、目をえぐれ、右手を切れと言う意味ではありません、その意味はどんなに大事なものであっても、手のように目のように大事なものであっても、神様の祝福を壊し、教会を壊すものがあるならば、近づくな、すてされ、ということです
携帯が誘惑になるなら、捨てましょう。誘惑になるサイトはブロックしましょう。
ヨセフと言う人は、ハンサムで、ポティファルの奥さんに目をつけられ、私と寝ましょうと毎日寄ってきた、どうしたか彼女に一切近づかなかったと書いてあります。
(創世 39:10)
それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
ヨセフは、誘惑する女性に近づかなかった。それでもある時、この奥さんが抱きついてきて、服をつかみました。彼はどうしたか?逃げたんです。
(創世 39:12)
それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
そのように、僕らも誘惑から逃げるべきです。それを放っておくなら自分を壊し相手の人生を壊し、教会を壊すからです。
そのようなLINEが来たら無視です。ブロックです。
携帯にポルノが入らないようにブロックするべきです。
結婚は素晴らしい祝福です。性的な交わりは美しく良いものとして与えられているからです。
それを壊してしまうものはブロックするべきです。
7,新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
赤坂先生は言いました。あなたのメールは全て妻に見られるように設定しなさい。牧師のパソコンは教会の皆が見える位置に置きなさい。自分しか見えない設定はしてはいけない。誘惑となるものを、罪の種になるものを取り除きなさい、と聖書は言います。
(●完全に切ったコリント教会のその後)
淫らな人、悔い改めない人との交際をやめました。教会はその人を追い出し、その兄弟は除名となり、サタンに引き渡されました。
それは悲しいことだったし、痛みを伴うことでした。その結果どうなったか。その兄弟は淫らなことをやめ、悔い改めたようです。教会はもう一度その兄弟を受け入れました。
2コリント2章
4,私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(…中略…)
6,その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
7,あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
8,そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。
愛は、放置することではないです。愛することは、敵とは見做さないで、忠告することです。動機は愛です。取り戻したいからです。
動機は愛です。その人を切るのは最終手段です。それは痛みを伴います。でも、目的は最後にその人が悔い改めて救われるためです。
―考えてみましょうーー
●Sexが聖なる良いものである理由を挙げてみましょう。
●罪を犯し続けている仲間にあなたがすべきステップを順番にあげましょう。
●あなたにとって切るべき人やモノはありますか?
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