2023年12月20日水曜日

使徒2.41-47 「神様がお造りなった教会の姿」

 「神様がお造りなった教会の姿」


ある主人がしもべに蹄鉄を作るように言いました。「いいかい、この蹄鉄と同じものを200作るんだよ」しもべは「はい分かりました」と言いました。主人はしばらく外出して、戻ってきました。見ると、全く形の違うものが出来上がっています。

「どうして同じように作らなかったんだ?」と聞くと「同じように作りました」と答えます。


しもべは最初の一つを真似てもう一つを作り、作ったものに真似てまた作り、そのコピーを真似てまたコピーを作り、という具合にコピーのコピーを作りつづけ、200個目には全然最初と違った、という話です。


同じように、神様が最初にお作りになった教会があります。僕らはコピーを見てお手本にするのでなく、最初に神様が与えてくださったオリジナルの聖書が教えている教会を見る必要があります。


●イントロ


何度か話したことがあると思いますが、僕がイエス様を信じた時、みいこの前で神様信じますと初めて告白したんだけども、その時最初から彼女にいました。僕は神様を信じるけど教会にはいかないからね。僕は神様信じるけど教会は信じない。その時みいこはそれを受け入れてくれて、それから1年間は信じているしお祈りもするけども、教会には行かないと言う生活が続きました。みいこが札幌の実家僕は旭川の実家で、携帯電話ない時代に郵便で毎週みいこから通信教育を受けました。毎週阿部のメッセージが入ったカセットテープを送ってくれて、これを聞いてくださいそして聖書の何ページ開いて読んでくださいそれと手紙をくれて一年ぐらい僕はみいこから聖書の学びを阿部先生の声だけ聞いて聖書の学びをしました。


なぜこの話をしたか、と言うとなるべく人と関わらないで生きる、面倒なことには巻き込まれないようにする個人主義の考え、人とか変わららないですませよう、という考えはの当時よりももっと増えて、強くなっている時代だからです。買い物も人間を通して買うのではなくただ機械に入力するだけ、そういう社会が浸透しています。その考えは、クリスチャンの間にも知らず知らずの内に入ってきていて、自分もそうでしたけども、神様を信じるし、聖書の言葉も知りたいけれども、人間関係は煩わしいから、教会には集まらない、と言う考えが増えていると思います。自分もそうでした。


そうやって、一人で阿部先生のテープを聞いているうちに、教会が大事、というメッセージを連続でし始めました。確かコリント人への手紙だったと思います。それを毎週毎週聞くうちに、僕は教会の人たちは信じないけれども、神様が、教会に集まることが大事だ、というのなら、しょうがないな、と思うようになりました。教会に行ってみようかな、思うようになりました。


教会に行くようになったのですが、なるべく人と関わらないように、と思って、あまり深入りしないようにと思って、行くようになりました。教会に行くと話しかける人がいました。そようこそ遠藤さんいらっしゃいましたとか言ってくれたり祈っていいですかと言われたり、聖書を開いてくれたりする方がいて、正直に言うと話しかけないでほしいし、ほっといてほしいと、思っていました。


ある時、みーこが札幌からきて、みんなの前で、なんで、エンちゃんはそんなに教会を避けるの?と言いました。

めんどくさいし気持ち悪い、というようなことを言いました。そしたら、教会が好きになるように祈ればいいじゃん、というので、拒否しました。結構です。そんな祈りをしてしまったら、本当に好きになるじゃん。


そして、じゃあいいよ、ということで、僕以外の人たちが、正田先生はじめ何人かの教会の人たちが遠藤さんが教会を好きになりますように、と祈られてしまいました。おかげで今は大好きです。


●キリストとの交りは兄弟姉妹との交わり。


41,彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

42,彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。


教会と言う言葉を調べると、ギリシャ語でクレシアと出てきます。これは神様が呼んで、集められた人たちと言う意味です。最初から神様は「集まる人たち」が教会だとおっしゃっています。そもそも、人間をお作りになった時から神様は「人間は1人で入るのは良くない」とおっしゃって、互いに愛し合い、助け合うようにと意図されて作られています。


今日の箇所は、聖霊に満たされた人たちが誰からも強制されずに喜んで集まり喜んで愛し合っていた世界が最初の教会の世界が伝えられています。


41,彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

42,彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。


教えを守りなさいとか、交わりなさいとか祈りなさいとか人に強制されてはないです。ただ、神様ご自身がそれを願っていて、イエス様を信じて聖霊を受けた人たちは、聖霊様が集まっては愛し会い、一緒に聖書を学び、祈りたい、と思っておられるので、その通りにする人たちでした。


 42節4つのことが書かれています。

1 使徒たちの教えを守る事。当時まだ新約聖書ってできていなかったです。でも使徒が生きていた時代なので、イエス様はこうおっしゃった、という神様の言葉を、ライブトークで聞くことができました。人々は喜んでイエス様の教えを求めたし、聞きたいと思って集まっていました。


プテスマと言うのは、聞いたことあると思いますけども、浸されるとか、1つになると言う意味です。何と1つになるかと言うとイエス様と1つになると言う意味です。イエス様が頭で、私たちは身体そしてその期間の1部となりました。イエス様がぶどうの木で私たちはその枝の1部となりました。

体の器官は頭の考えの通りに動きます。手も指も体を離れて勝手に動く事はありません。だからイエス様を信じてバプテスマを受けた人たちは教え、つまりイエス様の教えとか言葉に繋がり、それを毎日求めるようになります。聖書読めないとか、読もうと思わない、って言う人もいます。最初はそのような自覚がないです。でも、手も足も指も必ずアタマと繋がっている


2 そして交わりをしていました。交わりとはコイノニアと言って共有することです。交わりとは単なるお付き合いではなく、神様の言葉を一緒に受け、神様の御霊を一緒に受ける、という霊的な交わりです。


普通、「交わり」って言葉は人間には一般的には使わない。特殊な言葉です。

中川昭一先生のメッセージ。学生の時クリスチャンの友に誘われて、初めて教会に行って見たそうです。礼拝も祈りも全然意味がわからなかたそうです。帰ろうと思ったら、あるご婦人が、よかったら交わりして行きませんか?とと言ったそうです。中川青年は、その交わりして行きませんか?って言葉をその時初めて聞いて怖くなったそうです。道路が交わるとか、線と線が交わる、という時に交わり、という言葉は使うけど、人間が人間に交わりしませんか、ってすごい生々しくて、何するの?と思ったそうです。お断りしてそそくさと教会を出て、しばらく教会から離れてから、友だちに交わりって何?って聞いたそうです。そしたらお茶飲んだり、うどん食べたり、といったそうです。だったらうどん食べてきませんか?といえば普通なのに、教会はやはり交わり、という。


キリストの体につながる、という意味の交わりです。キリストに繋がった人たち同士が祈りやみことば、そのように霊的なものを共有する、というのが交わりです。初代教会はそのようにして御霊の交わりをしていました。礼拝の最後に祝祷というのがあります。牧師が皆さんの祝福を祈る祈り。略して祝祷。でいろんな聖書の箇所を用いて祈る牧師がいるけど、多いのは2コリントの最後、「2コリント 13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」まさに神様が願っておられるのは、聖霊の交わりです。集まって祈る、集まって賛美する、集まってみことばを学ぶ。教会の交わりはキリストとの交わりであり、聖霊の交わりです。


3 パンを裂いていました。これは食事の意味です。そして、食事の中でイエス様が私たちのために体を裂かれ、血を流されて私は許されたよね、あなたも許されたよね、と言う福音をもう一度確認していました。教会の中心は、あーしなさいこうしなさいと言う教えや圧力ではなくて、イエス様が全てを捨てて血を流してくださったことへの感謝が中心です。今も昔も変わりません。


今は聖餐式と呼ばれるけど、元々は、食事を一緒にして、イエス様のことを思い出し感謝する、ということです。皆さんも経験があると思いますけども、誰かと一緒に食事に行く、誰かと一緒に時間をおいしい時間を過ごす事によって相手を深く知り、そこに流れる神様の恵や愛を知る、ということがあると思います。食卓を囲んでいろんな話をして共有するのは神様の方法です。イエス様もいつも食卓を囲んで、神様の愛を表しておられました。初代の教会は同じ食卓を囲む人たちでした。


46,そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし

47,神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。


4 祈りです。祈りは賛美です。

誰よりも祈っておられるのはイエス様。今も天の大祭司としてとりなしの祈りをしてくださっています。そして、聖霊は私たちの中にいて、一緒に祈ってくださる方です。イエス様を信じて聖霊を受けることは、祈りに導かれることです。頑張って祈るというよりも、祈らさる、聖霊の交わりにつながると、祈りが出てくるし、賛美も出てきます。讃美リーだーはイエス様、聖霊様。


――――

これら4つは聖霊を受けた人の特徴です。

イエス様の御霊を受けたので、イエス様と同じように、僕も兄弟姉妹を大事にしたいと思うと言う新しい心愛が神様の愛が与えられるのが教会です、すでに与えられています。そして、一緒に神様を賛美し、一緒に集まって互いの重荷を負って祈りたい、と思うようになっています。それが神様の本来の人間としての本来の姿だからです。


もし、昔のままで人と関わるのはめんどくさい、と思うのであればそれは肉の思いです。一人ぼっちで愛し合う事はできません。一人ぼっち成長する事もありません。


皆さんの周りをちょっと見たらわかると思いますけども、クセのある人たち凸凹な人たち、へんてこな人たちを神様は選んで呼び集めています.。なぜなら、「イエス様が私は罪人を招く」とおっしゃるので教会の人たちは、だから愛するのがちょっと難しいんです。

神様を知らない人たちの方がもっと気さくでフレンドリーで親切な人たくさんいます。でも神様はそのような人間の基準では選ばず、わざわざ罪人を招くとおっしゃったんです。だからへんてこな人たちが教会には多いんです。そんな気難しかったり変なこだわりが強かったり、するような人たちですが、皆イエス様が身代わりに呪われた血を流してあなたには罪がない、あなたは許された、あなたは愛する宝の子供だ、あなたのことを愛している、とおっしゃる神の民です。神の子供たちであり、神の家族です。


だからキリストを愛する事は、キリストの体を愛することと同じです。神を愛する事は神の家族を愛することと同じです。逆に言うと神の家族を呪う事は、神を呪うことであり、キリストの体を罵る事は、キリストを罵っているのとほぼ同じです


私たちは、聖霊を受けて、だんだん人から隠れる必要もなく、神様からも隠れず、裏表なく、神様の家族を愛し喜ぶように作り変えられます。


反対に、自分が高ぶり、神のようになっているときには自分を隠します。エデンの園で、高ぶって神様から背いたときには、人間は神様の目を避けて隠れました。お互いからも自分を隠してイチジクの葉っぱで体の覆いを作りました。私たちが交わりを避けて、自分を隠そうとするのは罪の結果です。


イエスキリストによって私は赦されされました。私は無罪です。私は愛されています。そのように立場が変わった人は恐れなく神様の前にも人の前にも恐れなく出ることができます。なぜならそのままで私が愛されているからです。全き愛、神様の愛は私たちの恐れを締め出します。


1ヨハネ 4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。


聖霊に満たされた人々は毎日、宮で集まり、ペテロや使徒たちの説教を聞き、家に集まって食事をして祈って賛美していました。毎日です。宮は神殿の礼拝、家は小グループでの交わりです。繰り返しますが、そこにルールだから、とかやらなければならないと言うプレッシャーはなく、喜びと真心を持って集まって互いに愛し合い食べて、感謝して、賛美して、祈っていました。


46,そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし

47,神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。


「心を一つにして」この心は、自分の心でなく、イエス様の心が与えられた、ということです。


この時、3000人ほどが洗礼を受けたと書かれています。その人たちは喜びにあふれ感謝と祈りに溢れ賛美に溢れ毎日集まっていました。どこに集まったかまずは宮です。そしてそれぞれの家です。 3000人がもし10人ずつ集まったらそれでも300軒の家が必要です。教会は自分の家でした。家が教会、毎日の生活が教会でした。今風に言うなら300の小グループだったことがわかります 5人ずつのグループなら600の所グループが最初からあったことがわかります。交わりと愛はその家庭的なグループの中で現れていました。


●神の愛の表れと伝道


私たちに注がれている愛は人間的な友情ではありません。神の愛です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:5 


自分からは神様の愛は出てきません。聖霊によって与えられるだけです。神様の愛とは自己犠牲の愛です。相手のために自分を失っていく愛です。相手を愛するために、時間を使い、力を使い、お金を使います。受けるのではなく与えることに喜びがあるのが神様の愛です。

そのために集まっていたのが、最初の教会の姿でした。


45,財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。


福音は、神様の愛の表れの中で広がります。

このように互いに犠牲を払って愛し合う事は誰の目にも、他の人から見てもうるわしく好意的なものでした。


47,神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。


神様を喜び、神様の家族を喜ぶと言う愛の交わりの中で神様ご自身がその愛の交わりの中に新しい人たちを加えて加えてくださいます。


この原則は、イエス様ご自身もそのように言われていました。イエス様が言われた通りになりました。


ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ 13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」


ヨハネ17

ヨハネ17:21,父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

22,またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

23,わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。


聖霊に満たされてキリストとつながって互いに愛し合って1つになっていくことは、この世が知っていくためです。

愛し合う事は伝道そのものです。私たちは伝道しようと思うとね教会の外の人たちに親切にします。もちろんそれでいいんですよ。

ところが、洗礼を受けて信者になったら、急に奉仕しなさい、とかあれしなさい、これしなさい、って急に厳しく要求するなるのは、間違いです。神の家族に対してまず愛を示す互いに愛し合うこれこそがこの世にこの世が神様を知っていく方法です。


ガラテヤ 6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。


親切にするのは、信者を獲得するための餌ではありません。

神様がその人を愛しておられるからです。教会に初めてきた人は大事にされます。でも、洗礼を受けたあとの人はますます大事にされるように、また、何十年も教会生活をしている先輩たちも愛され、尊敬され、大事にされる教会でありたいと思います。それが神様の願いだからです。


3 苦手な人を愛する方法


人間の愛なら、見返りを求めます。ところが、神様から与えられる愛は見返りがなくても大丈夫です。なぜなら神様が無限にそれを与え続けてくださるからです。人間から出た愛は感謝されなかったら損したと思います。こんなにしてやってやったのに見返りがない俺も言わないもう疲れた、というのが人間から出たいです。でも神様はすべてを捨てて私たちを愛してくださり今もその尽きることのない愛を聖霊によって与え続けてくださる方です。私たちにはできません。でも、無限の御霊によって愛が注がれ続けています。


44,信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、

45,財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。


財産を手放すと、自分のお金が減ると言うことです。これはまさにイエス様そのものの姿です。イエス様はすべてを手放しただけでなく、私たちを愛するために救うために自分の命さえも手放してくださいました。全てを手放して神様と人に与える、これがイエス様の愛です。ギブアンドテイクではありません。与えっぱなしで大丈夫です。神様が無限に祝福してくださいます。「受けるより与える方が幸いです。」



家様の願いは、そのように私たちがイエス様と1つになっていくことです。私たちイエス様を信じました。でもみんながイエス様に全部明け渡したかというとそうでもありません。それでもイエス様の願いは、私たちが自分を捨ててイエス様とひとつになることです。


ヨハネ17:21,父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。


愛する事は、相手を尊重することです。今もうこれは変わりません。聖霊に満たされた人たちは、考えの違う人たちを認めるようになります。分裂分派は悪の思い自分中心高ぶりですが、御霊の実は謙遜さ柔和さそして相手が自分より優れた者として使う新しいイエス様の姿の表れがあります。


今も考えが違います。幅のあることはたくさんあります。マスクはどの場面でするか、考えが違います。礼拝で使う音楽の好みは違います。服装の好みも、喋り方も、考え方も、好きな色形、全然違います、でもただイエス様の聖霊によって罪人たちが凸凹な考えの違う人たちがへりくだって1つにされていきます。そこに神様の愛があり、その交わりの中に神様の喜びがあり、新しい人たちをその愛の交わりに加えてくださるのが伝道でした。


●まとめ


イエス様は、集まることを願っています。一緒に食事をし、一緒に祈り、一緒に聖書を学び、一緒に生活を分かち合うことを願っておられます。自分を捨てて、愛し合うことを願っておられます。教会でも家でも一緒に集まり、一緒に食事をすることができるように、祈り求めましょう。それが教会の姿だからです。


これが最初の教会の姿でした。聖書は最初の教会の姿を私たちに今日もう一度教えてくださっています


集まることをやめてはいけないと聖書はいます 緊急事態宣言が出たとき阿部先生は誰がなんと言おうと集まって礼拝するのはやめるべきではない、とおっしゃってました。執事会でも悩んできましたけども、御霊の願いは考えの違う人たちを尊重しながら喜んで集まって愛し合い、一緒に祈り、一緒に分かち合い、一緒に賛美することです。


この世の中がどんなに変わっても、聖書の言葉は変わることがありません。もう一度聖書の言葉に聞きましょう。自分の考えを捨てて神様を愛し、互いに愛し合う一つのキリストの体を目指していきましょう。

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