箴言29章
若い頃、みことばを教え、ディボーションを教え続ける牧師を見て「あぁはなりたくないなー」と思いました。教えても教えても反抗され、批判され、カタイ、暗いと言われて何の楽しみも報いもないように見えたからです。それでも聖書に立つことを教え忍耐しつづけてくださったことは僕にとって人生最高の宝です。人間的な愛やお楽しみや癒しも良いものだけど、儚く消え去ります。ところが神様のことばに聞き従うことは僕らを根っこから変え続けてくださいます。それは本当に人を祝福します。隣人を愛することは神様の真実なみ言葉を教え、それに従うように勧め続けることです。対症療法もいいけど、大事なのは根本治療です。それはみことばに聞いて従うことです。みことばは神様のいのちだし、神様のみことばは世界を作り、今も世界を治め、僕らを生かし、やがて世界を裁くことばだからです。(2ペテロ3.5-7)
(15節から18節)
15,むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる。
16,悪しき者が増えると、背きも増す。しかし、正しい人は彼らの滅びを見る。
17,あなたの子を戒めよ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。
18,幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。
洗礼を受けて出来上がりでもゴールでもありません。そこからが新しい人生のスタートです。イエス様は「あらゆる国の人々を弟子としなさい。(…中略…)わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と言われました。(マタイ28.19-20)
神様の子どもになった人を教え続けるのは大変です。謙遜でなければできません。子育てと同じです。エネルギーを消耗し、傷つけられ、心配し、反感を買うからです。それが主のしもべです。イエス様がそのようにされたからです。愛することは関心を持ち、かかわり、諦めず、期待し、注意し、叱責することです。そのように神様の子どもたちを愛していく事はイエス様ご自身の願いです。
これはすべての人に言われています。僕が牧師を見て「ああはなりたくないなー」と思った理由は傷つきたくないし、消耗したくないし怖いからです。僕らは傷つくことを恐れて人と壁を作ります。放っておいた方がラクと思います。でも、それは罠です。
(25-26節)
25,人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。
26,支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。
反抗する人、強そうな人にへつらうは罠です。そして放置した結果は悲惨です。
(5節)
隣人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。
(21節)
自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには手に負えない者になる。
愛することは戒めることです。愛することは関わることです。それは傷つけられることも含みます。それはイエス様が受けてくださった傷です。
人を恐れず、へつらわず、愛して関わりましょう。御霊の愛は恐れを締め出します。(1ヨハネ4.18)愛して傷つくことは神様への尊いささげものです。受けるより与えることです。みことばを教えるのは御霊の愛です。そこにいのちがあります。主のいのちであるみことばを後回しにして、やれカウンセリングだ、メンタリングだ、食事会だ、温泉だ、と楽しむことも悪くはないけど一時的です。本当の癒しは主の言葉の前にひれふし、悔い改めて根っこから変えてもらうことです。
誰にも教えてもらえず放置されてガンコな厄介者にはなりたくないです。高齢になると柔軟さを失いがちです。若くても、人はもともと高慢で頑固です。そこに本気で関わり叱ってくれる人は、年齢とともに減っていく気がします。周りが呆れて放置するようになってしまします。今日からちゃんと愛しましょう。本気で関わりましょう。今日からちゃんと愛されましょう。叱られましょう。そこには祝福があります。ハレルヤ!
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