2024年1月16日火曜日

マタイ8.1-17

 マタイ8.1-17


祈る時、イエス様が、どんなに憐れみ深く、愛に溢れた方か、そして、どんなに力があるお方か考え、子どもが愛情深いお父さんに抱っこされているように、身を委ねその愛と力の大きさを感じるのが大切です。そのような感覚を想像するのをオススメします。


聞かれる祈りは「もしおできになるのでしたら」とか「もし、御心でしたら」という不安げなものではありません。「おできになります」という確信と平安です。ある時、ツァラート(重い皮膚病)に冒された人がイエス様のところに来て、確信して言いました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と。




1節から3節)

1,イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。

2,すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

3,イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。



ツァラートに冒された人は、自分の問題や苦しみよりも、イエス様の権威と、愛と、憐れみを考え信頼しています。ひれ伏すことは自分の全てをイエス様に明け渡すことです。

反対に僕らは問題の大きさとそれゆえの不安や解決策を考えることばかりに時間と力を使って疲れがちです。神様の力の大きさ、愛と憐れみの大きさを考えない結果、出てくる祈りはおっかなびっくりで、「おできになるのでしたら(ムリでしょうけど…)」みたいな、信仰によらない祈りになってしまいます。聞かれる祈りは信仰の祈りです。


もちろん、自分の不安や困ったことを神様に言うのは良いことです。でももっと大切なのは、神様がどんなに憐れみ深く力強く僕らの側に立ってくださるかを考えて祈りにすることです。神様の願いは、私たちが癒され回復することです。僕らが神様の愛の中にとどまることです。イエス様は「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15.9)とおっしゃいました。僕らは自分で思う以上に愛されています。愛されているから喜んで従います。(ヨハネ15.10)どうせ愛されてない、と決めつけて従わず「どうせムリ」と思うのはウソです。


ローマ人の百人隊長はイエス様の力を信頼しました。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8)この隊長は、「もしおできになるのでしたら」ではなく、「私のしもべは癒やされます。」と言い切っています。理由があります。自分も言葉で日々100人の兵士を動かしているからです。軍隊では隊長の命令には絶対服従です。ならば、世界を動かす権威のある王イエス様のことばには全てが従います。彼はイエス様のことばの力、そしてしもべへの愛と憐れみを信じてお願いしました。



5節から9節)

5,イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、

6,「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。

7,イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。

8,しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。

9,と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」



イエス様に信頼することをイエス様は喜んでくださいます。信じた通りに権威があり、当時に愛と憐れみに満ちた方だからです。



10節)

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。



13節)

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。



祈るときに大事のは信頼です。イエス様の力と愛と癒しを信じた人は疑いません。そして、お父さんが必ず良くしてくださるというテイで行動します。



ヤコブ1:6-8

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。



寝たきりになってしまった中風の人をその友人たちはイエス様のところに運んできました。信じてるからです。「ムリだ。イエス様も忙しいし、混んでるし、また今度にしよう」とは思いませんでした。イエス様はその友人たちが「イエス様は癒してくださる」と信じている信仰を見て、癒してくださいました。



92節)

すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。



聞かれる祈りとは「神のみこころにしたがって願う」祈りです。神のみこころとは、神様が愛し憐れんでおられるのと同じく、僕らも苦しむ人たちを愛し憐むことです。もしも、隣人をめんどくさいと思い、見下しているならみこころの祈りはできません。愛が問われます。百人隊長も中風の人の友人たちも苦しむ友人を、しもべを愛していました。まるで自分のことのようにイエス様にお願いしました。



(1ヨハネ5.14-15)

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。



「神のみこころにしたがって願う」祈りとは、神様への信頼の祈りです。そして、隣人を愛する祈りです。…と言われるとガッカリします。自分には愛がなく、苦しむ人と一緒に苦しむのをめんどくさがるからです。


僕らが見上げるべき、考えるべき、時間をかけるべきことは自分のことではありません。イエス様の愛と力の大きさを考えることです。

無限の愛を与えるイエス様の御霊が僕らに新しい心を与えてくださいます。「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と聖書は言います。(エペソ6.18)


僕らは御霊と一緒に祈ります。神様は、僕らが祈るのを待っておられるかのようです。肉の祈りでなく、自力で背伸びする祈りでなく、御霊によって、信仰によって祈るのを待っておられるようです。御霊は僕らに信仰を与えてくださいます。神様の愛と力を信頼させてくださるのは聖霊によります。聖霊によるのでなければ、誰にも愛も信仰も祈りも与えられません。


信仰の祈りと信仰によらない祈りがあります。聞かれるのは信仰の祈りです。信仰の祈りとは神様に愛されている。その愛の中にとどまることです。そして、同じように私たちも隣人を愛し憐れむことです。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2)これが信仰です。

「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8)これが信仰であり、神様の愛です。


神様と隣人への愛を求めましょう。イエス様への信仰を求めましょう。御霊を求めましょう。必ず与えられます。ハレルヤ!







0 件のコメント:

コメントを投稿