2024年2月7日水曜日

マタイ15.1-20

 マタイ15.1-20


先日天に召された先輩が書いていました。若い頃に信仰のあつい人から「神様は愛です。感謝です」と話しかけられると、逆に自分に感謝がないことや愛がないことを見せつけられるようで、目の前は暗くなり、自分の罪の深さを示されたと。また、ある病院の掲示板に書かれていた「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」という聖書を読んだ時、喜びや祈りとは反対に「神は残酷だ。神なんて知らない。心から消えて欲しい」と思ったそうです。僕はすごく共感したし、素直な方だなぁと思いました。


部屋の窓から光が差すとホコリがよく見えるように、あるいは電気をつけるとゴミが散らかっているのがよくわかるように、神様からの愛や光が近づくと、自分内側にある醜さや怒りや愛のなさが示されてがっかりします。ところがなんと、イエス様はそのような心の貧しい人こそ幸いだと言ってくださいます。



(マタイ5.3)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。



自分は良い心ではなく正しくない(義ではない)ことを知らされて悲しみ、飢え渇く人は幸いだと言ってくださいます。



(マタイ5.6)

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。




自分の醜さはがっかりしますが、実はそれを知るのは良いことです。イエス様はそんな醜い人を愛し、赦し、きよめてくださるからです。しかも、それで終わらず、その人を内側から変え続けて愛と喜びの人にしてくださいます。その先輩は若い頃とは反対に、隣人を励まし、愛し、いつも喜び感謝する人と評判になって天に召されました。心の貧しい人は幸いです。


最悪なのは内側を隠して演技をする人です。愛するふりをし、神様を礼拝するふりをします。本当は神様も人も敬っていないのに、です。イエス様はそれを大問題だとしています。



7節から9節)

7,偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。

8,『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

9,彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」



この当時の律法学者は神様の教えよりも、こうすれば良い、ああすれば良い、という人の教えを作り、強調し、それを守っているかどうかで人を評価していました。反対にイエス様は人間の内側を問題にしていました。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16.7)とある通りです。



18節から20節)

18,しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

19,悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。

20,これらのものが人を汚します。



人は口で失敗しますが、心の声が出ちゃっただけです。だからイエス様はまず内側をきよめなさいとおっしゃいます。(マタイ23.26)神様は外側だけを良く見せようとするむなしい礼拝を忌み嫌う、耐えられない、憎む、疲れた、とおっしゃいます。



(イザヤ1.13-17)

13,もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。

14,あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。

15,あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

16,洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。

17,善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」



僕らの心の中に「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」(19)はあります。他人のことはさておき、自分の心の中を見てみましょう。

僕らの希望はイエス様の十字架です。イエス様が十字架で罪を全部引き受けてくださり、神に呪われ、僕らは赦され、罪のない聖なる者、愛する子、義なる者と呼んでくださいます。醜い僕らが神様の目には美しいとされています。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と神様は言われます。(イザヤ1.18)しかも、聖霊の新しい心が与えられ続けます。


その先輩は書いています。「私は目の前が暗くなり、神様の前に罪深いものであることを覚え、イエス様の十字架に従っていこうと思い、受洗の決心をしました。」


心の貧しさを認める人は幸いです。僕らの救いはイエス様の十字架以外にありません。「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51.17)立派な礼拝とか音楽とか、そのような人の作ったものでなく、まして人が作ったルールとか教会規約ではなく、人からも神様からも捨てられて、僕らを愛し救って下さったイエス様を誇りましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4.12)ハレルヤ!


0 件のコメント:

コメントを投稿