樽井民江さん葬儀メッセージ マタイ5.3-6 「心貧しい人のための天の国」
月曜日の夜、樽井さんのお体を警察から教会に安置しまして、それから葬儀の打ち合わせが始まりました。
打ち合わせをしているのですが、次々と話題になるのは樽井さんがこうしてくれた、ああしてくれた、という教会の思い出話で、その打ち合わせは樽井さんが私たちに残してくれた愛に満ちているような打ち合わせになりました。
そして、昨日の夜の樽井さんを偲ぶ会でもそれは同じで、皆さん口々に樽井さんを通して受け取った神様の愛を口々に話していました。いつも隣人を励まし、愛し、喜でいる人、感謝する人、というイメージです。私もそう思います。
でも、樽井さんは最初からそうだったのではないことがわかります。
お配りしました作文は、樽井さんが洗礼を受けた1989年のものです。
ある時、お母様の看病で疲れてる時に、その病院の掲示板に書かれていた「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」という聖書を読んだ時、喜びや祈りとは反対に「神は残酷だ。神なんて知らない。心から消えて欲しい」と思ったそうです。
また、その病院には信仰のあつい人がいて、自分も病の身なのに、元気のない樽井さんを見つけて「神様は愛です。感謝です」と話しかけられたそうです。それは自分に感謝がないことや愛がないことを見せつけられるようで、「目の前が暗くなり、神様の前に罪深いものであることを覚えた」と書いておられます。
汚い部屋に光が差したとき、ゴミがよく見えてしまうのと同じように、神様からの愛とか光に触れた時に、人間は自分の心の中の汚さ、愛のなさ、みじめさを示されます。
皆さんも経験があるかわかりませんが、私は昔、近くにキラキラと喜んでいる人、元気な人、能力のある人がいると、自分が惨めに思えて嫌でした。そこにいたくない、いられない感覚でした。樽井さんも親切な人から声をかけられた時にそんな感覚だったのかな、と想像しました。また、反対に悲しむ人、痛む人を前にした時に私たちはなんて声をかけたらいいかわかりません。一緒に悲しむ、一緒に痛むことが私たちは苦手です。
自分が罪深いものであることを覚えた、と書いていますが、それは何か逮捕されるような事をしたという意味ではなくて、いかに自分が愛のない、親切心のない人であるかが、見せつけられたという意味です。
ところが、樽井さんは絶望で終わりません。次を読むと、「イエス様の十字架に従って行こうと思い、再び学び洗礼を受けるの決心をしました」「この方以外に、誰によっても救いはありません」と聖書のことばを書いています。
イエス様は、天の国がどんな人たちの国なのか教えてくださいました。それは僕らの予想に反して愛のある、喜んでいる人の国ではありません。親切な人の国でもありません。逆に、心貧しい人の国、悲しむ人の国、とイエス様はおっしゃいました。
(マタイ5.3)
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
樽井さんが経験されたように、自分の惨めさがわかり、愛がなく、喜びもない、心の貧しい人間です、とわかる人は幸いだとイエス様はおっしゃいます。天の御国はその人たちのものだからです。
よく「教会のみなさんは親切だ」と言われます。確かにそうかもしれません。でも、親切な人だから愛のある人だから神様に呼ばれたのではありません。明るい人たちだから神様に呼ばれたのではありません。イエス様はむしろそれと反対のことを言われます。
(マルコ2.17)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
樽井さんはこの方以外に救いはありません、と書いています。
かつて、神様は残酷だ、神なんて知らない、心から消えて欲しい。と不満をぶつけ、自分の姿を嘆き、悲しんでいた樽井さんです。その樽井さんが、イエス様から招かれ、呼ばれ、イエス様を信じる人になりました。
よく温泉の入り口に「入れ墨、タトウのある方は入店ご遠慮ください。」と書いてあります。
もしも、イエス様が教会の入り口に看板を書くとしたら、なんて書くでしょうか。「罪人を招いています」と書いてくださるでしょう。また「自分は正しいという方はご遠慮ください」とか「自分は良い人間だと思う方はご遠慮ください」と書くのではないかと思います。なぜなら、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」とおっしゃるからです。
聖書は、神様は愛です、と言います。また、イエス様が命です。と言います。また、イエス様は光です、とも書いてあります。
つまり、私たちに愛がない原因は、神様から切れてしまっていることです。私たちが暗くなる原因は、光であり希望であるイエス様から切れてしまっているのが原因です。そして、死んでいくのは命であるイエス様から切れているのが原因です。
神様から離れることは、愛から離れ、命から離れ、希望や喜びから離れることです。
私たち人間は盗んだり、傷つけあったり、嘘をついたりします。殺し合います。それは神様から離れた結果現れた症状であって、原因は神様から切れてしまっていることです。聖書は神様から離れることを「罪」と呼びます。
聖書は罪の結果、罪の報酬は死ですといいます。
(ローマ6章23節)
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
神様から離れ、神様から切り離された時から人は死ぬと聖書は言います。罪の報酬は死です。
私たちは、人の寿命をまるで電池のように思います。ある人は80年、ある人は100年の電池です。必ずいつか尽きてしまう命です。ところが、後半が大切です。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」イエス様は「わたしが命です」とおっしゃいます。
(ヨハネ11:25-26)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
もしも、永遠になくならないいのちがあるなら、それはイエス様です。イエス様が命そのものです。どんなに枯れそうな人でもイエス様を信じるなら、死んでも死なない命を得ます。枯れそうな花がもう一度水分にふれ、光を浴びたときに蘇るように、神様に触れ、神様と繋がるなら復活します。
人間は死後裁きに合うと聖書は言います。
ある人は永遠の命に入ります。それは祝福と喜びしかない天の国です。
そしてある人は永遠の裁きに入ります。それは永遠の苦しみです。
イエスはおっしゃいました。
(ヨハネの福音書5章24節)
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
昨夜からみんなが口々に樽井さんはもてなしてくれた、励ましてくれた、与えてくれたと言います。それは樽井さんが神様を信じ、命と愛につながった結果です。樽井さんは書いています「イエス様の十字架に従って行こうと思った」と。
十字架とは、当時の死刑の道具です。神様の怒りと裁きを表しています。
イエス様の十字架を信じることは、イエス様と一緒に古い樽井さんは死んで、イエス様とつながった新しい樽井さんとして生きることです。誰でも、みなさんも同じです。イエス様を信じることは、あの死刑台の上のイエス様と一緒に、古くて愛がなくて意地悪な自分は終わった、ということです。愛がなく親切がなく、希望もなく、どうしたらいいかわからなかった自分は死んで、今はイエス様といういのちとつながり新しく生きています。
樽井さんは神様からの愛と命につながったものとして生きられました。
樽井さんは今顔と顔合わせて神様の御もとにます。そこは永遠の祝福に満ちた神様の国です。
残された私たちにも希望があり、お手本があります。この方を信じるものは永遠の命を持ち、裁きに会うことがなく、死から命に移っています。樽井さんの変化と生き方は、この神様からの愛と命の表れです。
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