2024年3月12日火曜日

馬場敏さん葬儀メッセージ 詩篇16篇8-11節 イザヤ57章15節から16節

 馬場敏さん葬儀メッセージ 詩篇16篇8-11節 イザヤ57章15節から16節



お葬式やお墓参でよく聞かれる質問があります。それは「亡くなったおじいちゃんは今どこにいるの?」という質問です。

その質問にはっきりと答えてくれるのは聖書です。聖書はよく、「神様からのラブレター」と言われます。なぜなら、神様が人を愛し、どんな人も滅ぼすのではなく生かすためのメッセージが書かれているからです。神様から永遠の命と光と愛を教える本が聖書です。


イエス様の弟子にヨハネという人がいます。そのヨハネが聖書でこう書いています。



(ヨハネ 20:31)

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。



死後の命とか光とか愛とは正反対に、死後に裁きを受けて、永遠の闇と苦しに入れられる人もいることが書かれています。



(ダニエル12章2節)

ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。



聖書は永遠に苦しみに入る人もいると言います。死後の裁きと呪いも書かれている理由は、脅すためでも裁くためでもなく、全ての人が神様に赦され、愛される道に進むためです。聖書は絶望でなく希望が与えるための本です。「世をさばくためではなく、御子(イエス様)によって世が救われるためである。」(ヨハネ3.17)

それでは、どんな人が救われ、永遠の命を受けることができるのでしょうか。

みなさんは死後の命を受けられるでしょうか。みなさんは、永遠の祝福に入ることができるでしょうか。



後悔することや失敗したことは誰にでもあると思います。

馬場敏さんとお話しすると、よくおっしゃってました。自分がこんな病気になっているのは若い頃の罪の結果なんだ、自分がやってきた不祥な行いの結果を今私は受けて苦しんでいるんだ、と。それで一緒にお祈りすると、神様、どうぞ私の罪を赦してください、と祈っておられました。馬場さんは苦しみと同時に、いつも希望がありました。

こんな私に神様は答えてくださるし、赦してくださる、私を見捨てることなく、すぐそばにいてくださる、こんなありがたいことはない、と感謝しておられました。


イエス様は私たち人間が受けるべき罪の呪いを身代わりに受けてくださった方です。

教会には必ず十字架があります。これは、2000年前の死刑の方法です。私たちを救うため、神様の呪いと怒りを身代わりに受けてくださったのがイエス様です。馬場さんが信じるイエス様は神様の怒りと呪いを身代わりに受け、神様に呪われ、捨てられて、そして、その代わりに、あなたの罪は赦された、馬場さんの罪は赦された、と宣言してくださる方です。



●イエス様だけが光 神様への道


天国への道は善行を積むことではなく、良い行いや修行を積むことが道ではないと聖書は言います。

完全に赦され癒される道は私の裁きを受けてくださったイエス様を信じることです。

イエス様はある時おっしゃいました。



(ヨハネ14.6)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」



裁かれることのない世界、完全な癒し愛だけが満ちた世界に行く道はイエス様を信じることです。

天国に行くために良い行いをする、良い行いをしたら天国に行けると教える人は多いようです。悪人が地獄、善人が天国という教えで、イエス様はそれと正反対のことを言って人々を驚かせました。



(マルコ 2:17)

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」



イエス様は自分が正しいと思っている人を救うとおっしゃらなかったです。イエス様は罪人を招くために来たとおっしゃいます。良いことができなくて、傷ついていて、ひねくれてしまっているような、医者を必要としているような、そんな罪深い人を招くために来たとおっしゃいます。


実際にイエスキリストの生涯を読むとと、いつも一緒に食事にしていたのは、当時の反社会的勢力のような、国民から税金と言う名目で過剰にお金を取り立ているような人たち、全ての人に嫌われる不正をする人たち、そして体を売っている女性たちです。特に厳格な中東の文化の中で、人々から距離を置かれている人をイエス様は見つけ出し、声をかけ、一緒に食事をし、そして、これからは罪を犯してはいけない、とおっしゃっています。

また感染症で社会から隔離され見捨てられている人たちに近づいては、手をおいて祈り癒してくださいました。


イエス様のことを聖書は闇の中の光だと聖書はいます。光は、闇が深いほど、暗いほど良く見えるし輝きます。

イエス様はあえて暗いところに来られました。自分では良くなれない人たちのところに、自分なんて生きていても仕方がないと思っている人たちのところ、自分に絶望している人たちのところに来てくださいました。



●馬場さんの作文



2012年に馬場さんが洗礼を受けたときの証の作文を今日お配りしました.

当時、なさっていた事業の債務の問題、そして体調崩したことで、不眠症になっていたことが書かれています。

奥様や、姪のふみこさんを通してプレゼントされた聖書を読んで、神様からの赦しと希望があることを知ったと書かれています。馬場さんは平安を取り戻し、久しぶりに熟睡できるようになったと書いておられます。


また、その頃ひどい腰痛で医者から緊急手術が必要ですと言われたときに、一晩中神様にお祈りして、もう一度受信した時にはに手術は必要ありませんと言われたことも書いておられます。そのような体験を通して、本当に神様が私を愛し赦してくださっている実感を得て、今日も神様が聖書を通して私に語りかけてくださると言うことを信じるようになったとおっしゃっています。


斉藤牧師がここ数年は馬場さんの家に定期的に訪問してくださっていました。昨年の秋、馬場さんがどのように信じて、そして自分がどのように神様のこと思ってるのか、インタビュー動画を撮ってくださいました。今日はその中の1部だけ見ていただきたいと思います。


※インタビュー動画(祈る時に主は必ず答えてくださいます。祈ることこそ私にとって最高の方法です。祈りましょう)


お配りした馬場さんの作文の最後のページです。

「天地万物を創造し、人をご自身の形に創造された神。姿は見えずとも、御子イエス・キリストを世に遣わされた神。そして私の救い主であるイエス・キリストを私は信じます。神様の御言葉は絶対で永遠の生涯を一新してくださいます。」


馬場さんの祈りが書かれてます。

「主よ。私の心と生活に光を与え、御心にかなうものとしてください。いかなる時も主を賛美し、感謝を忘れません。信仰によって、主が私にいてくださる思いから。」

この確信と祈りは、神様が与えてくださった聖書の言葉からきています。

先ほどお読みした詩篇16編の8節-11節です。聖書に書かれた祈りがまるで馬場さん自身の祈りのようです。



(詩篇16篇8-11節)

8,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

10,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。



馬場さんは昔のことを悔い改める祈りをよくされていました。そしてそんな私が赦され、受け入れられていることへの感謝がいつもありました。



(イザヤ書57章15節から16節) 

15 「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生か し、砕かれた人たちの心を生かすためである。 

16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。 



馬場敏さんは、神様と共にいます。もはや過去の失敗も病も消え去り、栄光と祝福で満たされた人として神様のもとにいます。この恵をみなさんも一緒に受け取りましょう。

残された私たちにも同じ恵と愛が届いています。イエス・キリストによって皆さんも愛され、赦され、招かれています。地上でどんなに絶望しても、神様が与えてくださる希望と愛はなくなることがありません。


0 件のコメント:

コメントを投稿