聖書朗読 マタイ22.34-40 求めるべきはただ愛すること
●愛がないことを認める人は幸いです。
イエス様が教えられるときには特徴があります。それはイエス様が言われたことは、イエス様ご自身がその通りに実行していることです。イエス様がご自分でしないことをやれと言うことはありません。これはイエス様が実際になさっていることです。
(37-38)
37,イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38,これが、重要な第一の戒めです。
イメージしてほしいのですが、イエス様が皆さんの前にいます。そして、あなたの目を見て言います。
『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
イエス様にまっすぐこっちを見ています。
できません。としか言えません。愛してはいます。でも、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くしてはいません。
見ないでください、と思うか、目を逸らすか、正直に謝るか、皆さんならどうでしょう。愛してはいます。でも、全ての心を尽くしてではないです。命を尽くしてはないです。
私たちはイエス様に答えられません。余った時間で、お金で、疲れない程度でしかないです。
この愛はイエス様だけが与えることのできるイエス様の愛です。イエス様だけが心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、神様のために全てを捨てて、自分を捨てて、愛した方です。従うために命を手放し明け渡した方です。この律法を守った方はイエス様だけです。
ところが、今度は私たちにそのようにしなさい、とおっしゃいます。
「できません、赦してください。愛のないものです。」と正直に言える人は幸いです。
イエス様は心の貧しい人は幸いです。義に飢え渇く人は幸いです。なぜなら天の御国はその人のものです。その人こそ満たされます。自分の愛のなさに悲しむ人は幸いです。(マタイ5.3-)
聖書によると律法は僕らを生かすのではなく、僕らをキリストに導く養育係のようだ、といいます。
(ガラテヤ3:24)
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
律法は僕らの罪を教えます。愛がないことを教えます。そして、キリストの元に導きます。愛さなかったことを赦してください、と思わされてくれます。そして、神様と人を愛する力を与えてほしい、与えてください、という信仰の一歩を踏み出させてくださいます。私たちにまず必要なのはイエス様の赦しです。律法は僕らをイエス様のもとに導きます。
いつも私は神様よりも自分の用事が先です。自分の楽しみが先です。疲れないように調整するのが先です。自分の力がなくならないように、するのが現実だからです。命も心を尽くさないで、ほどほどの愛を、ほどほどの賛美を、礼拝をしがちなものです。
心貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものです。愛がない、とわかる人は幸いです。必ず与えられます。その人は満たされます。天の御国はその人のものです。
●高ぶる人は不幸です。
聖書は文脈で読むことが大事です。
このイエス様のこの一番大事な教えを誰に言われたか、34-35節に書いてあります。
(34-35節)
34,パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
35,そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
パリサイ人たちイエスを試そうとして尋ねたんです。なんとかイエス様に間違ったこと言わせて、失脚させようと思って質問しています。質問には2種類あります。教えてくださいと言う質問と、相手をやっつけるための質問です。35節は「イエスを試そうとして尋ねた。」とあります。自分を主張し、イエス様を試し、落とすための質問です。この質問は自分たちが正しい、自分たちはよくやっていると言うための質問です。
イエス様がおっしゃった、愛しなさいという言葉は、ユダヤ人たちにとってはイエス様に言われるまでもなく大事な教えでした。申命記と出エジプト記の中に、神の戒めを忘れないように、手につけ、額の上に置きなさい、という言葉があります。
『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』は申命記6.5の引用です。そして、その続きにこうあります。
(申命記6:8-9)
6,私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。(…中略…)
8,これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
9,これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
それで彼らは文字通りこの御言葉を書いて、そして手に付け、みことばが入った小さな箱を頭につけました。
(※小箱をつけたユダヤ人の写真)
いつも神様のことを忘れないようにです。
ところがそれを身にに付けた人たちがいつの間にか神様ではなく、一生懸命やっている自分の栄光を愛するようになっていました。イエス様はこのあと、23章で激しくそれを忌まわしい、とおっしゃいます。
(23章の5節から7節)
5,彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
6,宴会では上座を、会堂では上席を好み、
7,広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
この御言葉は、神を愛しなさい。心を尽くし、命を尽くし、という教えを自分はちゃんとしていますとアピールする人たちのことを忌まわしい偽善者、災だ、忌わしいものだ、とイエス様は23章で何度も繰り返します。
13,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
15,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
16,わざわいだ、目の見えない案内人たち。
23,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
25,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
27,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
29,わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
新共同訳「災あれ」フランシスコ訳「不幸だ」と訳しています。新改訳の前の版は「忌まわしいものだ」です。
イエス様が災だ、とおっしゃった相手は、自分が正しいと言う人たちです。自分の神学が正しい、自分の行いは正しいと言っている人たちです。自分の栄光を求める人たちです。そんな彼らに、もう一度自分を全てを捨てて、神様を愛しなさい。とおっしゃいました。
愛=アガペーと言う言葉は既に自分を捨てて愛する、という意味があります。
反対に罪の性質は自分を高め、自分を崇めます。
パリサイ人たちは私たちは神様を愛しています、と言いながら、自分の神学を愛し、自分の立場を愛し、自分を守り主張するために、神様の言葉を利用しています。イエス様はそれを何度も不幸だ、不幸だ、忌まわしい忌まわしい、災だ、と繰り返しています。愛は自分を高めることとは正反対です。愛は神様のために自分を捨てることです。
●愛とは神様ご自身
僕ら愛のないものですが、イエス様によって赦されています。義とされています。無罪です。きよめられました。でも、まだ、肉のこの体で生きています。いつも自分の栄光を求めることとの戦いがあります。そして、愛を求めるようにと言われています。イエス様はいつも神様との愛の交わりの中におられました。
(1ヨハネ4.16)
神は愛です。
(ヨハネ 15:9-10)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
教的に熱心なことが人々から賞賛される方法でした。
今なら、なんでしょう。可愛いこと、お金持ちなこと、ハッピーなこと。人が欲しがる満足、この世の満足、この世の栄光はたくさんあります。私たちは当時の宗教家と同じように、この世の満足が好きです。だから、なくなる満足ばかり求める虚しい私たちだから、こう祈りなさい、と続きます。
(マタイ6章9節)
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
前の訳は御名があがめられますように。です。
御名とは神様の力、神様自身です。そして、「神は愛です。」
私たちの中に聖霊はがおられます。聖霊は命を捨ててくださったイエス様の霊そのものです。その神様のみ名が、力が、聖なるものとされますように。
私たちの中に聖霊がおられます。聖霊の結ぶ実は愛です。神様が愛です。神様の中にいることは、愛の中にいることです。聖霊の実である愛は自己犠牲です。イエス様が命を捨てて愛してくださったその愛が私たちにも与えられています。その力が聖なるものとされますように。神様だけが崇められますように。
一番大事な教えはこの愛です。神様からの愛がなければ何をやっても虚しいうるさいシンバルだと言います。
(1コリント13章1-3節)
1,たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2,たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
3,たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
どんな信仰があっても、どんなに祈りがあっても、山を動かす信仰があっても神様ご自身である愛でないなら、聖霊の愛でなければ、うるさいって言うんです。意味がないと聖書はいいます。
イエス様はできないことをしなさいとは言わないです。命を尽くして心を尽くして愛する事はイエス様ご自身です。そしてイエス様ご自身の聖霊が、聖霊による愛が私たちの中に与えられて、日々注がれています。
(39)
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
イエス様が隣人を愛しておられます。自分自身のように愛してくださったのはイエス様です。
罪がないのに、罪人をまるで自分が罪人のかのように愛し、罪人のためにすべてを捨ててくださったのはイエス様です
泣く人と共に泣いてくださるのはイエス様です
何も困ってないイエス様が、神様である方が、罪人と一緒に悲しみ、そして醜い醜い罪人のようになり、裁かれ、唾をかけられ、罵られ、神様からも呪われ捨てられました。これが、イエス様の隣人を自分のように愛する方法でした。
私たちはいつも抵抗します。イエス様のように愛することに抵抗します。自分さえよければいいのです。
自分の快適さに非常に関心を抱きます。お腹がすいたとき、自分のためにはすぐに行動します。他の誰かがお飢えていても関心がありません。 不快な思いをするとき、そこから抜け出す方法を見つけたいと行動します。他の誰かが不快な思いをしているときには同じような気持ちにはならないです。
自分の敵がいなくなるように努力します。でもうめいている隣人の事は気にかけないのが私たちの肉の姿です。
自分自身のように隣人を愛したのはイエス様です。嫌われ捨てられる罪人、罪の結果の悲惨さを引き受けて呪われたものとなってくださったイエス様です。愛は隣人のために、罪人のために自分を捨てる事です。これはイエス様の愛です。
(ローマ5章6-8節)
6,実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7,正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8,しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
●すべての教えは愛によって完成します
(40)
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
神様を愛し、人を愛することは、全ての律法、教えを完成します。
神を愛してるから偶像を作らないんです。神は愛してるから安息日を捧げるんです。神は愛してるから意味のない口だけ形だけの礼拝をしないんです。すべての教えは、この2つの戒めに要約されています
神様を愛してるから父母を敬うんです。隣人を愛するから殺さないし、嘘つかないし姦淫しないんです。
愛するから欲しがったり盗んだりしないんです
すべての教えはこの2つにかかっています。聖書はいます。隣人を愛する事は律法を実現します
(ローマ13章9-10節)
9,「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。
10,愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。
まず私にはできないと思う人は幸いです。できないからです。
助けが必要です。教えの通りに自分を捨てて愛してくださったイエス様の霊が私たちにいます。
イエス様の聖霊によって、私たちは神を愛することができますイエス様の霊が隣人を自分自身のように愛しています。
一度だけの人生を、神様に喜ばれる金や銀や宝石であるようにと願います。皆さんにお勧めします。なくなる名誉のためでなく、お金のためでなく、なくなる快楽でなく、永遠に価値のあることに捧げましょう。
(マタイ7章12節)
ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
人からしてもらいたいことは何でも自分がすべきこととなります。それは聖霊の力です。
周りにこうあって欲しいこと。不満、不便。それこそ、あなたがすべきことです。あの人にこうして欲しかった。それはあなたがそうしなさい。もっと愛して欲しかった。ではあなたの方から愛しなさい。尊敬されたい。では、あなたがの方から尊敬しなさい。受け入れてほしい。では、あなたが受け入れなさい。赦してほしい。あなたが赦しなさい。
全てを捨てて神様を愛すること。そして、全てを捨てて人を愛すること。これは神様の霊によって与えられた聖霊によって完成します。
私たちの力はできませんが、聖霊に明け渡す時に、神様の愛が現れます。
(37-39)
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
イエス様の愛です。イエス様の犠牲です。イエス様の霊によります。明け渡しましょう。僕らの体は聖霊の宮です。僕らの体はイエス様の体の一部分です。明け渡しましょう。
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