2024年3月3日日曜日

使徒の働き2:41-47 「人生はイエス様との共同作業」 (教会について その2)

 使徒の働き2:41-47 「人生はイエス様との共同作業」 (教会について その2)


●イントロと前回の復習


今月は総会があって、東栄教会がどんな教会を目指すのか、牧師としての方針を示すことになってます。牧師の願いではなく、神様が願っている教会になってほしいと心から思います。それで、2月と3月は二回にわたって、神様がお作りになった最初の教会はどんな教会だったのか、そして神様が現代の私たちに願っているのはどんな教会なのかを一緒に聞いていきたいと思います。


使徒2章に書かれている教会は、神様が聖霊によって作られた最も純粋な、人間の手垢がついていない、最初の教会です。


この時代は教会についての本もなく、教会成長の戦略とかセミナーもない時代です。ただ、イエス様が、イエス様の聖霊によって建てた教会でした。そして、聖霊に満たされた弟子たちが説教し、聖霊によって信じた3000人の人が最初の教会でした。そしてただ聖霊によって作られた純粋な教会が何をしていたかが書かれています。それは42節に書かれている4つのことです。


(42) 

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。 


聖書協会共同訳2018
そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。


いつも、ひたすら4つのことをしていました。

1 教えを守る 2 交わりをする 3 パンを裂く 4 祈りをする。


この4つです。

前回のメッセージでは前半の2つだけを学びました。

最初に前回の2つのおさらいをして、次に後半の2つを学びます。


1 教えを守る


彼らがいつもしていたことは、何よりも使徒たちの教えを聞いたことです。まだ聖書がない時代、イエス様がおっしゃったことやイエス様がなさったことは、使徒たちを通して伝えられました。教会はひたすら、いつも聴いていました。これがイエス様が願う教会の土台です。それが記録されたのが新約聖書です。教会はイエス様の言葉によって作られ、イエス様の言葉によって成長します。それは今も同じです。赤ちゃんがミルクを飲んで成長するのと同じです。


(1ペテロ2.2)

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。


神様の言葉には命があります。

赤ちゃんがミルクを飲まなかったら死んでしまいます。同じようにイエス様がお作りになった教会は何よりもまず、イエス様の言葉を毎日聞いていました。それによって彼らは力をもらい、愛をもらい、喜びをもらっていました。それは今も同じです。イエス様の言葉は教会の命の源です。僕らに神様から力が注がれ、愛が注がれるの方法は、聖書の言葉を通してです。


2、交わりをする


次に、彼らは毎日互いに愛し合い、助け合い、仕えあっていたことが書かれています。これはイエス様の言葉を毎日聞いていた結果です。神様の言葉は力と愛となって現れます。彼らは言葉を聞くだけでなくそれを実行していました。


(44-47)

44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、 

45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。 

46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 


受けるより与えること、お互いを愛すること、お互いを励ますこと、時にはお互いを戒めること。

そして、パンを裂いて一緒に祈るために毎日心を合わせて集まっていました。それぞれの家で喜んで食事を分け合い、一緒に祈るのが彼らの日常でした。


ここまでが前回の復習です。

今日のメッセージでは後半の二つを学びます。


3 パンを裂くこと。

4 祈ること


●パンを裂くこと


まずは、3、パンを裂くことの大切さを学びます。一つのパンを裂いて一緒に食べることはイエス様がそうしなさい、とおっしゃったことです。今では聖餐と呼ばれることが多いです。聖餐の「聖」は神様の聖さ、という意味です。「餐」は食事という意味です。英語ではHoly Communion 聖なる交わりと言います。一つのパンを食べることは、イエス様とつながることだし、イエス様による赦しときよめを思い出すことだ、とイエス様は教えてくださいました。


1、キリストの体に私もつながっていること

2、イエス様が裂かれ十字架で殺され、私がきよめられたこと


教会はいつも一つのパンを食べ、イエス様につながっていることと赦されていることを確認していました。


1、キリストの体に私もつながっていること


最初の3000人はバプテスマを受けました。バプテスマとは合体するとか、浸される、という意味です。何に浸され、何に合体するのか? それはイエス様です。イエス様に浸され、イエス様につながるのがバプテスマです。それは言い換えることができて、聖霊に浸され満たされることでもあります。


(1コリント 10:16-17)

私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。


「あずかること」=「交わり」共有すること、つながることです。

イエス・キリストを受け入れたとき、あなたはキリストの体の部分となりました。僕の体はイエス様の体の一部です。また、他のクリスチャンたちもキリストの体の一部です。「これは私の体です」とイエス様は言われました。私の体です、とイエス様がおっしゃったパンを食べる事は、私がイエス様とつながり、イエス様と離れては何もできないと言うことを思い出すことです。イエス様の言葉です。


(ヨハネの福音書 15章5節)

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。


私も皆さんもイエス様の体の1部となりました。ぶどうの木と枝です。私たちは下手です。イエス様が木です。枝が木を離れては実を結ぶことはできないし、そもそも生きていくことができないのです。

そのようにパンを分けて食べる事は、イエスキリストとつながってきていることを表します。そして、イエス様とつながって生きていくと言う事は、その見える体である教会とつながって生きることです。


人生はイエス様との共同作業です。枝が実を実らせるのは、木とつながることで実現します。頭であるイエス様が地上で何かをします。その時に器官である私たちが何かをします。僕らの人生すべてはイエス様との共同作業、教会との共同作業になりました。パンを食べる事は、私たちがイエス・キリストと繋がってることを思い出すためです。

イエス様との共同作業は教会の仲間たちとの共同作業です。


いつも仲間に助けてもらいます。それはイエス様に助けてもらうのと同じです。逆に仲間を愛し助けます。それはイエス様を愛し仕えるのと同じです。僕らは人に仕えているように見えて、実はイエス様に仕えているのです。

人から助けてもらうように見えて、実はイエス様の助けを得ているのです。イエス様を愛します。イエス様に愛されています。それは体である教会の仲間を愛し、愛されることに現れます。イエス様を離れて、私たちに何もすることができないからです。


彼らが実際どんな生活をしていたか書かれています。


(44-47節)

44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、 

45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。 

46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。


みなさんの隣の人を見てください。その人はキリストの一部です。隣の人を愛することはキリスト愛することです。キリストを愛することは教会の仲間を愛することです。物やお金で助け合い、時間を使って愛し合うことは、キリストを愛し仕えることです。もしもそれとは反対に教会の仲間を傷つけ憎むなら、それはキリストを傷つけ憎むことです。


この話をすると、皆さんから心の声が聞こえてきそうです。「こんなケチで汚れた私がキリストの1部だなんて思えない。あの人クリスチャンと言いながら、ひどい生活してますよ。あんな人がキリストの一部なんてダメじゃないか。もっときよく美しい人じゃないとダメなんじゃないか」皆さんどう思いますか?

汚れた人はダメですか?その通りだと聖書は言っています。あってはならない、と言います。そして逆に、それでも聖なる体の一部にされている、とも言います。


まず、あってはならない、と聖書は言います。


コリント人への手紙 第一 6章15節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。


キリストの体を使って罪を犯すことを聖書は「そんなことがあってはなりません。」と言います。実際に性的な罪を犯す人もいます。そしてまた、ある人は実際には性的な罪は実行しないけど、心の中だけでする人もいます。イエス様は言われます。


(マタイの福音書 5章28節)

しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。


イエス様から見ると、罪を実際にする人と、心の中だけでする人は全く同じです。

あってはならない罪深い私たちです。それでもパンを裂いて食べることは、私たち汚れた罪人がイエス様の聖なる体につながっていることを表します。


汚れた私たちがイエス様につながる理由、それでも赦されている、きよめられている理由が書かれています。

パンを裂くことの大事な意味の二つ目はこちらです。


2、イエス様が十字架で殺され血を流されたことで私が赦されきよめられたことを確認すること


パンを裂くことは、イエス様の苦しみと処刑を思い出します。

僕らがきよめられるのはイエス様が神様の怒りと呪いを受けて、身代わりになってくださり、体中が鞭で裂かれ、傷だらけになり、釘で刺され、槍で刺され、死んでくださったからです。あの十字架の上に僕らへの神様の呪いと怒りは注がれ、僕らは赦され、きよめられ、無罪とみなされました。


最初の教会がひたすらやっていたことは、毎回パンを割いて、イエス様が殺され、裂かれ、僕らが赦された、僕らは無罪とされた、きよめられた、ということを確認して、毎日心の中から出てくる罪を認めて悔い改めて捨てるためでした。

教会が集まるのは、十字架のもとです。十字架は僕らの罪深さを教えてくれます。あの血だらけの姿は本当は僕らの姿です。それを思い出すために、イエス様は私を思い出して、覚えてこれをしなさい、とおっしゃいました。


(ルカ22.19)

「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」


何を覚えるのか?それは、イエス様が裂かれ、苦しみ、殺され、それによって赦されたこと、イエス様によって完全にきよめられたことです。


最初の教会も今の教会も共通していることは全員、罪人であることです。罪人が呼ばれ、集められたのが教会です。そして、罪人がイエス様の十字架によって赦され、きよめられています。


(コリント人への手紙 第一 11章26節)

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。


パンを食べるたびに、イエス様の十字架の死よる赦しときよめを告げ知らせるのです。これ私たちの交わりの中心だし土台です。これは何度言っても言い過ぎではないです。教会の中心は十字架です。私は赦された罪人、あなたも赦された罪人、最初の教会は毎日確認するかのように、パンを裂いて感謝していました。毎日罪を認め、それを悔い改めて告白して、罪を捨てる祈りをしていました。毎日赦しに立ち返り、自分も赦されたのだから、互いに赦していました。こんな自分が受け入れられたのだから、互いに受け入れ合っていました。


十字架以外に誇るものはありません。ここからずれると、どちらが正しいか、きよいか、がんばってるか、そういう意味のない比較とか争いが入ってきます。それらはイエス様の前では全く意味のないことです。


イエス様が呼び集めてくれた僕らは、全員罪のある、性格の歪んだ人たちです。愚かな、弱い人たちだ、と聖書は言います。


(1コリント1.26-28)

26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。


弱い人、愚かな人、変な人たちをイエス様が選んで、呼んで、無罪と宣言して教会としてくださいました。だからあなた方も同じように愛し合い、受け入れなさい、と言われます。


教会がいつも立ち返る原点は十字架です。

イエス様の苦しみ、忍耐、全てを捨てて、命も捨てて愛し、受け入れてくださったことを毎日覚えるためにパンを裂いていたのがイエス様の教会です。イエス様ご自身が一番惨めな、恥ずかしい罪人の立場になって、嫌われて、呪われてくださいました。そうやって僕らを受け入れてくださっています。今もそうです。


これが福音です。これが教会です。だから変な人が多いのです。問題を起こす人が多いです。イエス様が「私は罪人を招くために来たのです」とおっしゃるからです。


(ルカの福音書 5章32節)

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。


毎日確認しないと、罪を認めて悔い改めていないと、すぐにいばりだします。比べだします。私が正しい、あなたが間違っている、どちらが綺麗か、どちらが醜いか比べ合います。イエス様のあの血だらけの姿を忘れた時にそれが始まります。


今も毎回、毎日十字架を思い出して、傲慢さを悔い改めるのは教会にとってすごく大事なことです。

赦された者として互いに赦しあうこと、これが教会がひたすらしていたことでした。


ナイトdeライトの曲を紹介します。アレンジとキーボードで参加しましたが、弾きながら涙が出てきた曲です。


曲名「マーガレットの花びら」 アーチスト ナイトdeライト 3分45秒から

https://www.youtube.com/watch?v=ss5vlSa8_sk


あなたを悲しませる僕がすごく嫌いだ

何度も何度もしでかす僕が嫌いだ

他人のせいにして偽る僕が嫌いだ

救いようのない馬鹿な僕が嫌いだ


そんな僕のことを愛して愛して愛して

僕が嫌う全てをそれでも愛して愛して

いろんな小さなことを嫌いな僕がもっと嫌いで

こんな僕のことをそれでも愛してくれる あなたが好き 


● 祈り


イエス様ご自身が最初に作った教会は教会は祈る教会でした。彼らはひたすら祈ってました。彼らがいつも祈っていた結果、人間の力によらないことが起こっていました。


(43)

すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。 


祈りはあてのないつぶやきではなく、ちゃんと結果が約束されている確かなものです。イエス様はおっしゃいました。


(ヨハネ 14:13-14)

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。


イエス様はイエス様の名前で求めるなら、それをすると保証してくださっています。だから祈るんです。世界中のクリスチャンはイエス様の名前で祈ります。

イエス様の名前で祈る、とは、自分の祈りでありつつ、イエス様の祈りでもあることです。僕らの祈りでもあり、イエス様の祈りでもあります。イエス様との共同作業が祈りです。

イエス様の霊である聖霊との共同作業が祈りです。祈れない人は安心してください、祈りは自分で頑張ってするものではありません。イエス様の力によってします。そして、イエス様の聖霊が一緒に祈ってくださいます。


最近の僕の流行りの祈りは、「神様、祈れません。疲れました。聖霊様、祈ってください。祈らせてください。一緒に祈ってください。」です。本当にホッとするし、祈りが出てきます。僕の祈りでありつつ、聖霊の祈りでもあります。そして、イエス様の祈りです。祈りはイエス様との共同作業、聖霊様との共同作業です。


そして、イエス様の名で求めるものはなんでも与えられます。イエス様の権威を預かって、イエス様のご計画がなるように祈ります。そして、祈りによって神様のご計画が進みます。祈ることは、イエス様のご計画が進む一番確実な方法です。

だからイエス様はこう祈りなさい、とおっしゃいました。


(マタイ6章10節)

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。


「御国」とは、神様の思い通りになる世界です。「みこころ」とは神様のご計画です。

神様は僕らが祈ることでご計画を進めます。僕らの人生は神様との共同作業です。祈ることによって神様がご計画している世界が実現します。

祈りは神様のご計画が実現するための大事な通過点です。イエス様の名前で、共同作業として、聖霊と一緒に祈ります。

だから祈りは苦行ではなく、喜びだし安心だし特権です。神様と一緒に物事を動かしていく方法は祈りです。

祈らない理由がありません。しかも、その結果は必ず出ます。

最初の教会は祈りの結果を見ることができました。


最初の教会は力強い教会でした。祈る時に神様の力が分かりやすく、はっきりと現れました。使徒によって多くの奇跡としるしを行ったと書かれています。イエス様の名前で祈る時に神様の力が現れます。この後すぐ、歩けない人が歩くようになったことが書かれています


(3章6節)

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 


ペテロが言ったのは、イエス様の名前、イエス様の力です。ペテロの力ではありません。そのように、イエス様の名で、イエス様の力で祈り願うなら、イエス様の癒しや奇跡が起きます


心を合わせて祈る時には神様の願いが実現します。御国、神様の国が実現します。そのように祈りなさい、とイエス様がおっしゃっています。信じて祈りなさい、とも言われています。

僕らの人生はイエス様との共同作業です。イエス様と一緒に、聖霊と一緒に祈るために呼ばれたのが教会です。

その結果は喜びであり、賛美です。そして、新しく救われる人たちが次々と加えられることです。


(47)

神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 


正しい教会であると、正しいことが起きます。祈りの結果、多くの奇跡が与えられて賛美していました。周りの人たちからは好意を持たれました。

ここでは伝道の方法についてはあまり語られていません。でも、この4つ、教え、交わり、パン裂き、祈りが結果として最大の伝道になりました。人々が毎日教会に群がってきました。それは主が彼らを加えたと書いてあります。

彼らが頑張ったのではありません。最も優れた伝道の方法は、聖霊に満たされ、教えをひたすら聞き、交わりをし、パンを裂き、祈りをすることです。そこに喜びがあり、賛美があり、新しく呼ばれる人たちが加えられていきます。


●まとめ

今回、二回にわたってイエス様が作った人の手垢がついていない、人間の組織とか知恵によらない教会について神様に聞いてきました。

東栄教会も、人間が作ったあの方法、この方法と振り回されないで、ただイエス様が願っている教会になりたいです。

ひたすら、いつも、イエス様の教えを聞き、それを聞くだけでなく実践する教会になりたいです。イエス様との共同作業が僕らの人生、教会との歩みです。


イエス様が最低な姿で愛し、赦し、仕えてくださったことをいつも思い出す教会になりたいです。そして、イエス様と一緒に、聖霊に助けてもらいながら祈って神様のご計画を一緒に進める教会になりたいです。僕らの現実はどうでしょうか。


今から聖餐をします。もう一度イエス様の十字架を思い出しましょう。イエス様の体につながってることを思いだしましょう。イエス様が血を流し鞭で裂かれ、くぎで刺され茨で刺され、槍で刺されたことを思い出しましょう。自分の罪を高ぶりをもう一度悔い改めましょう。告白してない罪があったら告白しましょう。赦していない人を赦しましょう。



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