詩篇41篇
誠実さとは「私はちゃんとしてます」ではありません。むしろ「私はちゃんとできていないです」と小さな欠点も罪も内側の高ぶりも認めて告白することです。神様に喜ばれることは神様のあわれみに頼ることです。僕らの功績は義とされることには関係ありません。そもそも内側は不純物だらけで、神様の前に正しくきよい人など1人もいません。(ローマ3.10)では、どのように祈ったらいいのか?それは詩篇が教えてくれます。これは祈りのお手本です。
(4節)
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」
神様は、自分の罪を告白する砕かれた魂を喜び、赦し、立ち上がらせてくださいます。(詩篇51.17)僕たちがより頼むべきは自分の立派さではなくて、神様の憐れみとめぐみです。
(10節から11節)
10,しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。そうすれば彼らに報いを返せます。
11,このことによって私は知ります。あなたが私を喜んでおられることを。敵は私に向かって勝ちどきをあげません。
悪意に取りつかれた人は失敗を攻撃し、その人が死ぬことを願います。神様はそれとは正反対です。罪人の死を願わず、喜ばず、悔い改めて生きることを喜び願う方です。
(エゼキエル33.11)
わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。
悪口の拡散には殺意があります。その人は恨み、憎み、相手が死ぬことを願います。
(5節から9節)
5,私の敵は私の悪口を言います。「いつ彼は死にその名は消え去るのだろうか。」
6,人が見舞いに来てもその人は噓を言い心のうちでは悪意を蓄え外に出てはそれを言いふらします。
7,私を憎む者はみな私についてともにささやき私に対して悪を企みます。
8,「邪悪なものが彼に取りついている。彼が床についたからにはもう二度と起き上がれまい。」
9,私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。
もし、このように誰かから攻撃されても仕返しする必要は全くありません。ただ、自分の欠点と失敗と罪を認めて神様に告白し憐れみを求めるだけです。自分の目にはちりどころか梁のような大きな罪が必ずあります。(マタイ7.3-5)僕らが喜ばれる理由はそれを認めて告白し憐れみに頼るからです。神様は必ず立ち上がらせてくださいます。正しい裁きは神様がなさいます。
(10節から13節)
10,しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。そうすれば彼らに報いを返せます。
11,このことによって私は知ります。あなたが私を喜んでおられることを。敵は私に向かって勝ちどきをあげません。
12,私の誠実さゆえに私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。
13,ほむべきかなイスラエルの神主。とこしえからとこしえまで。アーメン、アーメン。
誠実さとは「私はちゃんとしてます」ではありません。むしろ「私はちゃんとできていないです」と認めて告白することです。神様の憐れみは尽きることがありません。ハレルヤ!
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