詩篇40篇
マスコミもSNSも悲惨なことや憤りをかきたてるような事を拡散しがちです。神様を知らない人は、どうしてもそちらに目が行くしし、「誰が悪い」と犯人探しをしがちです。ですが、神様の福音はそれとは真逆です。どんなに汚れ失敗し醜態を晒しても愛し、赦し、憐れみ、見放さすことなくきよめてくださる恵みの宣言です。
神様に祝福され幸せな人とは、神様がしてくださった愛と恵みを一つ一つ数え上げて感謝する人です。もちろん罪と悲惨が満ちているこの世界だしそれを悲しみ嫌う神様です。それでも、変わらずにそこに福音があります。幸いなのは罪から出る人のことばに振り回される人ではなく、尽きることのない神様の恵みを発見する人です。聖霊によって心の目と耳が開かれる時に初めてこの福音がわかるようになります。尽きることのない恵みを一つ一つ数えていくと、それはあまりにも多くて、数え切れません。
(4節から5節)
4,幸いなことよ主に信頼を置き高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人。
5,わが神主よなんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。
神様は憐れみ深いお方です。そして、神様が僕らに願っておられるのも憐れみです。自分の理屈で解決しようとか、宗教熱心になることで神様を動かそうとすることではありません。ただ心の耳が開かれて、イエス様の赦しとあわれみと愛を知り、それを数え上げて感謝することです。
(6節-8節)
6,あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。
7,そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8,わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」
上記6-8節の解説は新約聖書ヘブル人への手紙10章にあります。神様はいけにえに見られるような宗教儀式を喜ばず、ただイエス様のからだが十字架の上で一度だけささげられたことによって、完璧な罪の赦しを実現してくださいました。
(ヘブル10.8-10)
8,以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
9,それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。
10,このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
僕らがイエス様の十字架によって赦されたことを感謝し、賛美し、その愛とめぐみを言い表すことを神様は喜んでくださいます。「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」と聖書はすすめます。(ヘブル13.15)
(9節から10節)
9,私は大いなる会衆の中で義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を押さえません。主よあなたはご存じです。
10,私はあなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。
神様が100%です。僕らは0%です。賛美は神様がしてくださった愛と恵みの数々を言い表すことです。賛美は「頑張って歌うこと」でも「キレイで上手な音楽を作ること」でもありません。賛美も感謝も神様に栄光を帰すことです。賛美は神様が与えてくださるプレゼントです。
(3節)
主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ主に信頼するだろう。
感謝と賛美を歌うことは、神様の恵みを数え上げ、自分にも他の人たちにも教え、伝えることでもあります。それはあまりにも多くて終わりがありません。(5節)
今日も苦しみや悲しみがあるし自分のしくじりに落胆もします。でも、そんな心の貧しい者は幸いです。(マタイ5.3)貧しさの中でもイエス様の愛と憐れみは無限だからです。イエス様の十字架による赦しときよめは今日も完璧です。神様だけが僕らを救い出す方です。これが福音です。今日も神様が心の耳と目を開いてくださいますように。今日も福音を感謝しましょう。賛美しましょう。ハレルヤ!
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