2024年4月10日水曜日

出エジプト8.20-24

 出エジプト8.20-24


人を差別してはいけないけど、神様の前での区別はあります。それは神様の民か、それとも悪魔の支配下にあるかの2つです。しかも、神様に従わない後者の人たちには、最終的な神様の裁きがあります。「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。」(テサロニケ人への手紙 第二 1章8節)


この区別と裁きを表すかのように、神様はエジプトにだけアブの大群で苦しめ、イスラエル人には裁きを与えませんでした。



(20節から24節)

20,主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。

21,もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。

22,わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。

23,わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」



神様の民だけが守られ、彼らを苦しめる者には罰を与えることは、この後も続ききます。



(出エジプト記 9章4節)

しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」


(出エジプト記 9章26節)

ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。


(出エジプト記 10章23節)

人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。



この区別は今も適用されていて、最後の審判が下される時まで続きます。

僕らが伝えるのは福音です。脅しを伝えるのではなく、神様に赦され愛される神様の子どもになれるし、もう神様の裁きに会うことがない福音です。イエス様を信じる者には裁きはありません。



(ヨハネの福音書 5章24節)

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。



逆に言うと、神様の子どもにならなければ裁きがあるのも事実です。出エジプト記は頑固になって神様から裁かれたエジプトとファラオのことで僕らに警告を与えています。警告は僕らを守るためのものです。



(ヘブル人への手紙 12章25節)

あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。



神様の裁きはあります。そして、救いと赦しもすでに用意されています。

違いは、神の民になっているかどうか、神に属しているかどうかです。つまり、イエスキリストを信じ繋がっているかどうかです。イエス様を信じることは、イエス様が僕らの中に住んでおられることです。僕らはイエス様の住まい、聖霊の住まいです。(エペソ2.21-22)試練はあっても僕らには神様の罰や怒りはありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

けれども、イエス様とつながらない人は神の怒りに遭います。区別はあります。僕らが伝えるのは福音です。裁きに会うことがないのは福音です。福音を伝えましょう。裁きはあります。そして救いもあります!



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