出エジプト22.21-23.9「主がしてくださったように」
聖書の言葉を理解するときに大切な事は、誰が、誰に言っているのか?誰がいつどこで言っているのか?です。
今日の箇所は神様がイスラエルの人々に言った言葉です。いつ?イスラエル人たちが430年間奴隷だったけど、救い出され、エジプトから脱出できた時に神様がおっしゃった言葉です。
●弱い人の叫びを聞いてくださる神様
(21節から24節)
21,寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。
22,やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。
23,もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。
24,そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。
寄留者とは居場所がなく身を寄せる人たちのことです。今度は、あなた方はその人たちを虐げたり苦しめてはならない、とおっしゃいます。
今まで、あなた方はエジプトで寄留者として、430年も苦しめられ虐げられてきました。今度はあなた方はそのような居場所のない人、身を寄せる人を苦しめてはいけないし、頼るべき夫を亡くしたやもめとか、親を失ったみなしごを苦しめてはならないとおっしゃいます。
あなた方も同じように苦しんでいた時に神様に助けられたのだから、今度はあなた方が弱い人たちによくしてやりなさいと言うことです。あなた方はそのその人たちの気持ちが1番わかってるはずだから、です。
(23章9節)
あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。
イスラエル人たちは虐待され続けた時、神様に叫び求めました。祈りに答えてくださっった神様がエジプトに災害を下し、最終的にはエジプトの全世帯の長男は殺されました。海が分かれて道ができ、その道をとってイスラエル人たちは救われ、追いかけてきたエジプト軍は全部溺れ死んでしまいました。
イスラエル人たちは少し前に海岸で無数のエジプト軍の死体を見て、神様は虐げられている者たちの祈りや叫を聞いてくださることを体験しました。神様が本当に怒って復讐する方だと体験した人たちです。
(23-24)
23,もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。
24,そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。
もしもあなたがその弱い人たちを苦しめるならば、神様は彼らの祈りに応えて、あなた方を殺すと言います。神様の言葉に従うかどうか、それは命に関わることでした。実際、この時イスラエル人たち神様のことばが命を奪う権威があることを体験したばかりで、エジプト人の全世帯の長男が殺されたのを見ました。
神様の言葉は強制力のない、フワッとした言葉ではありません。神様の言葉は人を生かしたり殺したりする力のある言葉です。元々、神様はことばだけで世界をお作りになりました。これを聞いた時、イスラエル人たちは神様の言葉を恐れました。死んでしまう、とさえ思ったようです。
(20章18-19節)
18,民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。
19,彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」
彼らにとっての神様の言葉は、僕らが思うよりもずっと恐れるべきものでした。僕らが手出しできない圧倒的な権威があるのが神様の言葉です。そして、今も神様の言葉はその通りになります。
イスラエルが体験した苦しみは、今度は彼らが弱い人たち苦しむ人たちに親切にするためのものでした。
居場所のない寄留者の気持ちをイスラエルは知りました。自分を守ってくれる人がいないみなしごの気持ち、やもめの気持ちを知りました。だから、あなた方は、弱い人たちに、親切に、特に親切にしなさいと主が言われます。
僕らは病気になりたくないし、貧乏になりたくないし、人間関係で苦しみたくないけれども、でも、その苦しみはとても大事で、それによって、僕らは苦しむ人と一緒に祈ることができるようになります。
神様はわざわざイスラエル人たちを苦しみを通して、救われました。そして、今度はあなたがたが苦しむ人たちによくしてやりなさい、とおっしゃいます。
●弱い側になってくださったイエス様
イエス様も、神様でありながら、神としての権威を全部捨てて、人から裏切られ捨てられ、殺されるしもべの側になってくださった方です、そうやって弱い側、苦しむ人の立場になってくださった救い主です。
(ピリピ2.6-8)
6,キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7,ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8,自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
僕らの苦しみと同じ気持ちになるために、弱い肉体をもち、悪魔からも攻撃され、それで僕らを理解し救ってくださるのがイエス様です。
(ヘブル人への手紙4章15節)
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
僕らは苦しみたくは無いけども、でも苦しみを通ってはじめて、その立場を少しだけ理解できます。
やがて、地上の人生を終えて神様のもとに行く時に、誰が神様から褒められているかを見て驚きます。活躍していた牧師ではなく、有名な伝道者でもありません。なんと、弱くて苦しむ小さな人と生活し、彼らを愛し仕えている人が神様に誉められています。
(マタイ25章40節)
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
一番小さくて弱い人たちにしたことは、「わたしにしたのです」と言われています。
●敵を愛するイエス様
さらに23章になると、あなたの敵であっても助けなさいと神様がおっしゃいます。
(23章4節-5節)
4,あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。
5,あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。
相手は自分のこと憎んでいる人です。でも必ず彼と一緒に敵と一緒に助けなさいといいます。
まさにイエス様の姿であり、イエス様の教えそのものです。
イエス様がこの地上に来てくださった理由は、神様の敵であった私を救うため、罪人の私を愛するためでした。そして、神様の怒りと呪いを引き受けて、身代わりになって十字架で殺されるためでした。
僕が呪われないように、神の怒りに会わないように、イエス様が身代わりに傷つき捨てられ、嫌われ殺されました。
だから、同じように、あなたも敵を助けなさい、と言います。
敵を助けなさい、あなたを憎んでいるものの、ロバが荷物の下敷きになっていたら、見過ごさないで必ず起こしてあげなさい、です。
これはイエス様がそういう方だからです。イエスキリストを信じることは、イエス様の新しい心を受けることです。
弱いものの味方となり、敵を愛するイエス様につながったことです。
僕らにはできません。でもイエス様の御霊が私の中におられます。この体と心はもうイエス様のものとなりました。
神様の愛は自分を捨てること、失うことです。
イエス様を信じることは、十字架でイエス様と一緒に死ぬことです。
僕らのほんわかした愛のイメージと、神様が与えてくださる愛は全然違います。
神様の愛はキュンとか、いい感じになることではなく、自分を苦しめる人、自分に反対する人、自分を憎む人、自分の敵のために自分を捨て、与えるものです。この愛は人間からは出ないものです。
人間が思う愛と神様から与えられる聖霊の愛は全然違います。
人間が思う愛は自分の気に入った人だけを愛し、自分の気に入る環境を求めます。それ以外のものに対しては無関心になるか嫌うかです。
ところが自分を愛してくれる者を愛しても神様の前では何の価値もない、とイエス様は言われます。(マタイ5.46)「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」それらは神様から出たものではなく肉の行いです。
「気が合うから、楽しいから、喜びを与えてくれるから愛する」「自分を支えてくれるから愛する」どれもイイ話です。ホッとすることも、楽しむことも、応援されることも神様からのプレゼントです。…ですが、自分の思い通りにならない終わってしまうような、儚くて脆い愛です。
ところが神様から与えられる愛は違います。敵を愛し、そのために自分を失っていく愛は、僕らからは出ない御霊の愛です。
あり得ない愛が与えられています。終わることのない愛が与えられています。そして僕らもそれを行動で表すことができます。自分はできないけど、神様がそうなさいます。愛することは自分を捨てることです。自分を捨てるだけでなく、イエス様の御霊に満たされることです。愛することは自分の利益を求めず、他人の悪を心に留めないことです。神様の愛は与えることです。忍耐することです。裁かず、赦すことです。(1コリント13.4-7)神様は愛です。今日、僕らが神様に心も体も明け渡し、神様の愛を現す器とされますように。
イエス様を求めましょう。イエス様にこの体も心も明け渡しましょう。
1 自分がどんな人間だったか、イエス様はそんな自分にどう接してくださったか思い返してみましょう。
2 苦しみの中にある人たちに対する自分の態度とイエス様の態度の違いを考えてみましょう。
3 敵に対する自分の態度とイエス様の態度の違いを考えてみましょう。
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