出エジプト25.1-22 天の住まいが地上でも
~神の家を作りなさい~
皆さん献金のときどんな気持ちですか?「やったー!献金できる!」でしょうか。それとも「はぁー献金かあ…もったいないな」でしょうか
。教会の奉仕の当番の時、奏楽でも掃除でも料理でもメッセージでもいいんですけど「やった!受付!やった掃除!」でしょうか。それとも「はーっ受付かあぁ、掃除かあ」という感じでしょうか。神様はモーセに言われました
(1節から2節)
1,主はモーセに告げられた。
2,「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
神様は、神様のために奉納物を携えて来るように言いなさい、とおっしゃたけど、受け取る条件がただ一つだけあります。それは「進んで献げる心のある人から」です。イザヤ書1章13節でも同じ内容が書かれています。心のない、虚しい捧げものを神様は忌み嫌うといいます。さらに、耐えられない、とおっしゃいます。
(イザヤ1.13)
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。
ルールだからとか、言われたから、とか、やらなきゃならんから、という気持ちでしぶしぶやるなら、それは神様にとって忌むべきもの嫌うもの、耐えられないものです。「もう携えてくるな」と言われています。
神様を礼拝したりささげたりするのは正しいことだとわかっていても、それが心から喜んで進んでできますか?と言われると、正直なところ、そうでもないのが私たちの現実だと思います。
賛美していても、他のことばかり考えてしまうとか、献金が喜びではなく、ねばならない、という人がいると思います。教会の交わりもただ疲れるだけ、という人がいるかもしれません。神様にとって耐えられないものがその、義務だけの、心のない、いやいやながらの捧げものです。
(2)
「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
今日のメッセージを通して、神様に喜ばれ受け入れられる祝福される人生に変えられると信じてお話しします。神様の願いは、自分から、喜んで、進んで捧げることですから、必ずそれが与えられると信じてメッセージします。
神様に捧げたい、喜ばれたい、愛したい、交わりたい、という気持ちは自分からは出てきません。聖霊によって生きている水の川が溢れるように滲み出てくるものです。
外側から、ルールで押しつけてああしなさい、こうしなさいと言われて渋々やるものではないし、もし、イヤイヤながらやるなら、神様にとっては耐えられないもの、受け取ることができないものです。
自分が子供の頃、親に教会に連れて行かれて、お祈りしなさい、静かにしなさい、と言われ続けて苦しかったのを覚えています。ただ、我慢させられて、シーって言われ続けて、僕の神様イメージは「シー」っていう神様です。いい子に座っている子は愛されて誉められて、僕のように、はあ、まだ終わらないのー、早く帰ろう!と駄々をこねる子どもはダメな子、という歪んだイメージというかメッセージがそこにありました。自分から進んで神様に捧げたいと思わされたのは、23歳になってからです。
もし皆さんの中で、本音では礼拝も献金したくないし、疲れてしまっている人、暗黙のプレッシャーで苦しむ人がいたら、今日のメッセージで、その苦しみから抜け出せると信じます。
今日の結論は、全ての力も愛も捧げものも喜びも全部神様から与えられる、と言うことです。自分からは出るものは一つもなく、自分からは捧げることができる愛も力もない、と言うことです。そして、全ての力の源は、心から捧げる喜びの源泉は神様のことばによって与えれる、と言うのが結論です。
●ささげものは心のある人から
※文脈の確認。
いつ言われた言葉か?イスラエル人たちが430年間奴隷だったけど、救い出され、エジプトから脱出できた時に神様がおっしゃった言葉です。
何もなかった彼らが、ただ神様の憐れみで、滅ぼされることなく救われた、その感動体験をし、目の前で海が分かれて助け出され、追いかけてきたエジプトの軍勢がみんな溺死してしまったことを目の当たりにしたその後のことです。
神様のために捧げものを持ってくるように言われましたが、これから神様がおっしゃる高価な品々、全部神様がエジプトから脱出するときに与えてくださった神様からのプレゼントです。
奉納物を持ってきなさい、とおっしゃるけど、元々それは神様のものでした。
(12章35-36)
35,イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。
36,主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
全てのものは神様がエジプトから剥ぎ取って彼らに与えたものでした。
僕らがケチになる時、捧げるのが辛いとき、それは自分のもの、と思う時です。自分の時間と思うときには、時間を使うをの惜しみ、自分のお金、と思うときにはお金を捧げるのを惜しみます。惜しむか、逆に捧げてあげた、使ってあげたと自慢します。感謝ではなく自分の栄光、手柄としての捧げものです。
イスラエルは何も持たない奴隷でした。ところが、神様の恵みで良いものを余るほど手に入れることができました。その感動がありました。それを喜んで、携えてきなさい、そして、進んで捧げる人から受け取りなさい、と神様は言います。
これは聖書全体が言っています。
(2コリント 9:7-8)
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
「あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
神様はそもそもモノに困ってないです。反対に、溢れるばかり与えることができる方です。実際このときイスラエル人たちは、溢れるばかり与えられていました。
人々は喜んで、捧げました。最後にはもう持ってこないように言いなさい、と言う命令が出るほどに人々は持ってきました。
(出エジプト35章)
21,心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。
22,進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主に献げる者はみな、そのようにした。
(36章)
4,そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、
5,モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」
6,それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。
7,手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。
イスラエル人たちが奴隷から救われ、神様の奇跡を見て、神様が毎日パンをくださり肉を食べさせてくださり水を飲ませてくださる。その奇跡を体験した直後です。彼らは感動して捧げました。そして、それは余るほどだった、とあります。神様に捧げて、喜んで捧げて、それは十分でした。そして人々もそれで生活が困るとか、何かが足りなくなることはありませんでした。
※昔、子供がまだ2-3歳だった頃、妻が言っていました
お友達にお菓子分けてあげなさい、と言っても握り締めてお友達にあげなかったそうです。イヤだ、僕のだ、と言う感じで、力を込めてお菓子を握りしめるのを見たそうです。それを見て、そのお菓子を買ってあげた私としては、それを友達に分けてあげたら私はもっと買ってあげるのにと思ったそうです。
同じように、私たちの時間も体力も、命もお金も全部神様からの頂いたものです。
聖書は言います。
(2コリント 9:8)
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
進んで捧げる心のある人から受け取りなさい、
お金減ったとか、礼拝で時間がなくなったとか、奉仕のせいで、交わりで疲れたとか、文句のある人は捧げなくていいんです。むしろ、そのような礼拝を神様は忌み嫌う、耐えられない、とおっしゃいます。
言われたからやるとか、仕方なく当番だからやるとか、決まったからとかそういう事と全く関係のないことです。
※
皆さんご存知かもしれないけど、僕がすごく苦手な領域があって、それは当番とか組織を作ることです。
こないだ斉藤さんと2人で祈ってて、斎藤さんが、どうして遠藤牧師は当番とか順番決めとかそういうことになると気が進まないのか、その原因もわかったらいいですねって祈ってくださいました。
僕も祈って考えてました。なんで僕は組織とかルールとか当番とかそんなに嫌なんだろう?
今日の箇所の学びしててわかりました。僕が教会の責任者としてイヤなのは、組織やルールがいやなのではなくて、喜びのない人に無理やりやらせるような当番決めとか、組み分けとか、そういうことを責任者としてやらせてしまうのが足がすくむほど嫌なんだ、と気がつきました。もし自分がやりたくもないのにやらされたら苦しいし、それをやらせるのも辛い、とわかりました。
神様からの言葉によって、神様から与えられる喜びと愛の心によって動かされるのが教会です。大事なのは、神様の愛と恵がどんなに大きいかを体験し知っていくことです。そのように僕らは変えられると信じます。
自分の中からは感謝も喜びもありません。愛もありません。でも、神様は無限にその喜びと感謝と愛を与えたいと願っておられます。
進んで捧げる心のある人から受け取りなさい、と神様が今日も私たちにおっしゃっています。
●ささげものは神様と交わる家のため
それにしても、神様は奉納物を持ってこさせなさい、と言われました。
理由は、神様がそこに住み、ただ中にいるためです。遥か高く天におられる神様の願いは、見下ろすだけでなく一緒に、そのただ中に住みたい、一緒に過ごしたい、一緒にいたい、語り合いたい、と願っておられる方です。
(8節)
彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
この聖所のことを会見の天幕と聖書は言います。神様とお会いする場所です。神様がエジプトから彼らを連れ出した目的は、彼らと一緒に住むためです。
(出エジプト29章)
45,わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。
46,彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。
新約聖書はこれは天国の模型だと言います。
(ヘブル8.5)
5,この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。(…中略…)神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。
やがて天で神様と一緒に住むことになる、その模型のように、地上で聖所を作るように言われました。
25章からずっと神様は材料と設計図を与えます。神様の家を作るためです、神様を礼拝し、神様と交わる聖所を作るための設計図です。これは天国の地上の支店のような、神様とお会いする場所です。
神様の願いはイスラエル人の真ん中に住むことです。一緒に住みたがるカップルとか大親友のようです。
カップルが結婚準備を理由は一緒になるためです。一緒に住んで、交わって愛し合って、喜び合うためです。そのために準備します。喜んで、時間を使って、お金を使って、一緒に住む物件探しをして、準備します。その時間や労力は相手との幸せのためです。相手にとって良いことを考えます。もし、相手と一緒になるのが、嫌々ながらとか、渋々、惜しみながらするのなら、その結婚は考え直した方がいいです。
同じように、神様に捧げ物をささげる理由は、神様と一緒に住む家を作るためです。天国の模型のようです。材料は心から、喜んで捧げたものです。感謝とか喜びとか、そういう材料でできてる神様の住まい、聖所を作りなさいと教えました。
神様はどのような捧げものを受け取るか具体的に教えます
(3節から7節)
3,彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
4,青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
5,赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
6,ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、
7,エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。
8,彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
これ全部高級品です。ものすごい高いものです。エジプトから脱出したときに、エジプト人たちがたくさんの金や銀や首飾りや高級品をくれたと書いてあります。そのように神様が預けてくださった一番良い物を進んで捧げる人から受け取りなさい。最高級のものを捧げる理由は神様と親しく交わる愛の生活のためです。
今、神様が住む家はどこにあるか?エルサレムに神殿の跡地はあるけど、そこは神様の家ではありません。イエス様はおっしゃいました。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」(ヨハネ4.21)
聖書によると私たちのこの体が聖なる神様の住まいだといいます。幕屋です。聖所です。そしてまた兄弟姉妹のこの交わりが、教会が神様の家だといいます。イエス様が私はあなたとともにいるあなた方の中に住むとおっしゃいます。
(2コリント 6:16)
私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
この私たちの体と心が神様の家です。だから、この体を喜んで、神様に捧げなさい、と聖書は言います。
神様の願いは、僕らと親しく住むためです。
全ての奉仕も献金も神様と親しく住むためです。天国で、神様と顔を合わせて愛し合いその喜びは永遠に続く、その天の喜びの家を地上でも作っていくための奉仕です。
子ども会をして子どもを呼んで遊ぶのも、地域の人たちにチラシで福音を伝えるのも、神様の願いは人間が神様の家に招かれ、神様と親しく交わり語り合い愛し合う、その目的のためです。
賛美するのも、献金するのも、神様と親しく交わる家のため、掃除も伝道集会も、小グループで祈りあうことも、全部人のためでなく、神様の願いは、神様が人と住み、人と語り合い、人と神さまが愛し合う、そのような家を作るため、天の住まいを地上でも実現し準備するためです。ヒカリコもノエルも、ゴスペルも神学生を送り出すことも、神様の願いは人と神様が共に住み、交わり、語り合い、愛し合う天の国を準備するためです。
(8節)
彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
この意識は大事です。
掃除をするとき、掃除をしているのではなく、神様が願っている家を作っているんだ、という意識です。集会に人を誘うとき、人を誘っているのではなく、神様が願う、人と神様が一緒に住む家を作っている、という意識です。賛美チームが準備するのは、演奏するためでなく、神様と人が交わる時間と空間を作るためです。集まる人たちが神様への感謝と賛美の交わりに入るための準備です。
神学生のための献金をする時に、お金を出してるのでなく、神様が人と交わる家を作っているいるんだ、という意識です。献金を受け取る人も、生活費をもらっているのでなく、神様と人が交わるための費用をもらっている意識は大事です。
学びをするとき、知識を増やしてるのではなく、神様をもっと知り、神様との交わりの愛と喜びが増えるため、神様に喜ばれる家の祝福のためにやっている意識です。
水草修二先生の本のタイトルがすごくいいと思います。
「神を愛するための神学講座」全てのことが神様を愛するためです。そして神様に愛されるためです。学ぶことが目的でなくて、神様を愛し愛され交わる神様の家を作ることが目的です。神様の願いは、奉仕とか献金とか学びではありません。愛と祝福に満ちた天の家を地上でも準備し、天の国を地上でも表すことが目的です。天の住まいは愛と喜びと感謝と平安に満ちています。
神様に捧げるのは、神様との交わりのためです。
●全てはいのちことばから
さて、ここまで聞いて、がっかりした方もいらしゃるかもしれません。私には喜びも感謝もないなーと思う方。礼拝、教会ぶっちゃけめんどくさいな、と思う方、神様との交わりより自分のこと、損得、自分の願いばかり考えていたな、と思う方、いよいよ朗報です。福音です。
今日のメッセージは、神様の願いの通りに僕らが心から、感謝して、喜んで、神様に人生を捧げるように変えられるためのメッセージです。
神様の家、神様が住む聖所を作りなさい、とおっしゃった時に、神様が1番最初に作るようにおっしゃった、一番大事なものは、外側ではありませんでした。一番最初に、そして一番大事なものとして作るのが、神様の言葉を入れる箱です。神様の箱、契約の箱、神の言葉が入った箱が一番大事、この神の聖所の中心です。
(10節から16節)
10,アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。
11,それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。
12,箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。
13,また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。
14,その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。
15,その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。
16,その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。
神様の言葉が神様の家の中心です。神様は目に見えないけど、言葉で表れてくださり、言葉で私たちを導き、力を与え、言葉で新しい命を与える神様です。
その神様の言葉を石に書き記した、それの石の板を入れる箱が一番大事な、神様の家の中心です。
神様は見えない方です。でも、言葉で表れてくださる方です。
ヨハネの福音書もことばは神であったと言います。ことばが私たちの間に住まわれたと言います。
イエス様は今も言葉で僕らの中に現れ、力を与え、教え導いていてくださいます。
神様の家の1番の中心は神様の言葉です。
神様の言葉とは、単なる教えとか文字ではなくて、命そのもの、神様の考え、そして力そのものです。
神様の言葉は生きています。力があります。神様の言葉は現実となります。
キリストが私たちの中に住んでいます。今日もそうです。そして、キリストは神の言葉です。
命の全てはこの神様の言葉から出ます。私たちの計画も、力も愛もこの神様の言葉から始まります。
いくら立派な車作ってもエンジンがなかったら動かないのと同じように、いくら立派な教会の建物を建てても、生きている神のことばが中心になければ力も命もありません。教会に人がたくさん集まって、活気があるように見えても、神の生きている言葉がキリストが中心でなければ脆いものです。
神様は神の家である聖所を作るときに、まず1番最初に神の言葉を入れるための箱を作りなさいとおっしゃった。しかも、それはどこに行ってもそれ移動式です。
(14節ー16節)
14,その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。
15,その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。
16,その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。
どこに行く時も一緒です。人々が移動する時、実はこの神の言葉が先なんです。この箱は契約の箱とも言われています。神様が導くことと、この神様の箱が導くことはほとんど同じ意味です。
100万人以上のイスラエル人たちは40年の間荒野を旅をします。そのときに、いつもこの神様の箱が先に行きます。神様が先に進んでくれることと神様の言葉が入った箱が先に進むことが同じように書かれています。
(民数記10)
33,こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。
35,契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」
神様の言葉が人々を導きました。神様の家、神様の聖所で1番大事なのは神様の言葉です。
この神様の言葉、生きておられる命の言葉を入れる箱を作りなさいとおっしゃいました。そしてそれはどこに行くにしても、神様のことばが先に進んでいきました。
神様の言葉を聞いたり読んだりすることは、神様のいのちをもらうこと、神様との生きた交わりそのものです。
神様のことばを食べも飲みもしないで奉仕しましょうとか、捧げましょう、と言われても疲れるだけです。
いろんなクリスチャンの人を見ましたが、毎日聖書の時間を優先している人で喜びのない、感謝のない人は見たことがないです。なぜなら神の言葉は命があり神の言葉には愛があり力があるからです。
逆の人もいます。いのちである神様のことばを聞きもせず、読みもしない人が、礼拝しようとしても、捧げようとしても、力の源泉がないのでカタチばかりになってしまいます。出てくるのはカラカラに乾いた心、不満、不安です。そんな文句だらけの人の話をよく聞くと、ほとんど神様の言葉を聞く時間はないようです。聖書の時間をとっているというけど、よく聞くと、読むだけで従わず、ただの知識を増やしているだけで、そこには神様との交わりがないようです。神さまの言葉は命です。文字でも知識でもありません。神様のこと場にはそこに命があり力そのものであり喜びがあり愛があります。
神様の言葉を後回しにている限りは、喜びも愛も出てきません。出てくるのは文句と不安と渇いた心だけです。プライドがあるので、無理して良いクリスチャンを演じようとしてもますます疲れます。この負のスパイラルからぜひ抜け出したいと思いませんか。やりたくもないのに期待に応えようとするのは痛々しいです。
うちのおじいちゃん最近二日間食べれなくてほんとに心配しました。二日間食べてない高齢者が動けないのは当たり前です。ますます動けなくなってしまいます。
同じように、聖書ディボーションしてないないなら、聖書を読んでも形ばかりのものになってしまっているのなら、喜びも力もないと思います。
捧げる力のない人から神様は受け取らないし、無理矢理出しなさいとかやりなさいとか言う方ではないです。まずは神様の恵みのことば、命の言葉を毎日聞き、読み、食べることから始まります。
賛美の歌を歌ってもむなしい方はいるでしょうか。
教会の交わりに喜びがなく、ただ疲労感だけがある方はいるでしょうか。
献金も奉仕も形ばかりになってしまってる方はいるでしょうか。
聖書に出てくるマルタという人はよく動き、奉仕する人でした。でも、その源である神様のことばがありません。ただ、自分の力と経験、自分の思いだけで奉仕しようとする人です。この人が作っているのは神様との交わりの家ではありません。彼女はイライラして言います。
(ルカ10章)
40,ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
私だけがやらされている、と思ったようです。感謝も喜びもなく義務感です。やらなければならないからやってるようです。神様との交わりを作るのではなく自分が思うもてなしを作りたかったようです。喜びはなく、手伝わない妹を見てイラつきます。「私の姉妹が私だけにもてなしをさせている」やらされてる、という不満です。妹のせいです。なんならイエス様も悪い。「何ともお思いにならないのですか。」
もう神様のためでなく私のための奉仕です。「私の手伝いをするように、おっしゃってください。」イエス様に命令しています。
イエス様は答えます。
41,主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42,しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
神様のことばは命であり力です。
神様の言葉なしに、捧げようとしても虚しいものです。疲れるだけです。
30年以上前、会社員だった時、疲れ切ってオルガンの奏楽をしていました。
土曜の深夜というか、日曜の朝五時に家にかえって、それからシャワー入って、礼拝の曲を初めて楽譜見て、練習して、ヘトヘトでオルガンの伴奏してました。阿部先生に相談したら、「奉仕はね、しなくていいんですよ。」と言われたのを今でも忘れられません。
その意味は、義務とか、ねばならない、とか、そんな奉仕はしなくていいんですよ、という意味です。
それより大事なのは、人間として、十分に休息して、神様の言葉の前に静まって力を得て、人間らしく生きることです。そこから始まって何度も阿部先生に相談しながら祈ってもらいながら、会社と交渉して夜は家に帰れる生活ができるようになってきました。
こうしなければならないとか、私はこういう人間でなければならないとか、それは虚しいものです。天国では何の価値もありません。地上で聖所を作るように言われました。それは天国の写しだと聖書は言います。神様と住む場所です。それは神様のことばが中心です。神様と語り合うための家は私たち自身です。
●まとめ
今日のメッセージを通して、神様に喜ばれ受け入れられる祝福される人生に変えられると信じます。神様に捧げたい、喜ばれたい、愛したい、交わりたい、という気持ちは自分からは出てきません。聖霊によって生きている水の川が溢れるように滲み出てくるものです。
まずは、神様のいのちの言葉によって与えられることです。まずは命を得ることです。まずは食べること、聞くこと、満たされることです。
今日の結論は、全ての力も愛も捧げものも喜びも全部神様から与えられる、と言うことです。自分からは出るものは一つもない、自分からは捧げることができる愛も力も出てこない、と言うことです。そして、全ての力の源は、心から捧げる喜びの源泉は神様のことばによって与えれる、と言うのが結論です。
まずは食べましょう。神様の言葉は命です。そこから全てが始まります。神様の願いは僕らと一緒に住むことです。
カラカラに乾いている人が頑張っても、かえって疲れるだけです。
まずは、立ち止まって、静まって神様の言葉を頂きましょう。そこから全てが始まります。
神様から全ての良いものは出ます。喜んで、感謝して、心から捧げる人になります。神様の言葉には力があります。大丈夫です。みなさんの人生、そのままでは終わりません。天の住まいの準備はもう始まっています。ハレルヤ!
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