2024年7月9日火曜日

1サムエル19章

 1サムエル19章


サウル王が狂ったのは「わざわいをもたらす、主の霊」によるものです。(18章10節、19章9節)僕らは「主の霊ってわざわいをもたらすの!?」と思います。これは説明が必要だと思います。

神様はイスラエルに何度も「あなたがたの前に祝福とのろいを置く。」とおっしゃっいました。(申命記11.26、30.1、30.19など)神様に従うなら祝福、従わないならのろいです。

サウル王が神様に従うのは表面だけで、実は「自分こそあがめられるべき」という高ぶりを手放しませんでした。サムエルに罪を指摘された時、表面は悔い改めましたが、人々に良く思われる高ぶりは手放さず、「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。」と言います。(15章30節)


聖書は「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」と言います。(箴言16章18節)サウルは思い上がりを手放さず、反対に神様に祝福されて人から愛されているダビデを妬み憎み恐れます。「高慢は偶像礼拝の悪。」です。(15章23節)高ぶりによって災いとのろいを招くことは、神様がおっしゃった通りです。彼は罪を手放さず自分からわざわいを選び続けました。



(8節から10節)

8,再び戦いが起こった。ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えた。彼らはダビデの前から逃げた。

9,わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。

10,サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。



治療には対症両方と、根治治療というのがあるそうです。とりあえず症状を抑えるのが対症療法です、

ダビデはサウルの前で竪琴を弾き、祈ったり賛美したりしました。すると彼は一時的に癒されました。これは対症療法です。問題の根は治療されていません。また、息子ヨナタンがダビデを弁護し、ダビデを殺さないようにとサウルを説得するのも対症療法です。サウルの考えも変わりますが一時的です。基本的には治っていません。



(1節から7節)

1,サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。

2,ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。

3,私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何か分かったら、あなたに知らせます。」

4,ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。

5,彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」

6,サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」

7,ヨナタンはダビデを呼んで、このことすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。



根治治療は高ぶりを認めて告白し、それを捨てることです。

そうでなければ癒しはいつも一時的です。ダビデが自分より活躍するのを見るたびに「自分こそ人々からあがめられるべき、讃えられるべき」という罪が生き、おかしな行動をします。普段は安定していても、おかしくなるのはダビデが活躍しダビデが自分より注目された時です。(19章8節から9節)


僕らも普段は平常心でも、ある場面になると急に動揺し、おかしくなったりする場面があります。その原因には放置された罪があるかもしれません。僕らが不安になりすぎたり、妬みに駆られたり、怒り過ぎたりするのは罪の結果です。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と聖書は言います。(ヤコブ1.20)だから、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」(ヤコブ1.21)と神様がおっしゃいます。心の中に、神様のことばではない、おかしな考えが刻まれ、その結果わざわいを招いていることはあり得ます。


もともと、僕らはちりに過ぎない存在です。生きていることも神様の力です。何かができたとしてもそれは神様の恵みです。「りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6.3)ダビデは自分のことを「私は貧しく身分の低い者だ」と言いました。との通りです。(18章23節)

全てのことはただ神様のめぐみであり憐れみです。感謝と賛美は神様だけが受けるべきものです。栄光を欲しがる結果はわざわいです。


神様に聞いてみましょう。「神様、どうしてこのような場面になると自分は動揺するのでしょうか。苦しくなったり怒ったり不安になるのでしょうか」「放置されている罪や、思い込まされているおかしなアイデンティティーはあるでしょうか」と。

悪魔は高ぶらせます。神のようになれる、と今日も誘惑しています。その先は破滅です。

神様が今日、僕らの心の内側にある、本当の動機を教えてくださいますように。破滅やわざわいを招くものをちゃんと言葉にして手放すことができますように。





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