2024年8月4日日曜日

2サムエル6章 止められる理由 8/4メッセージ

 止められる理由 2サムエル6章 8/4メッセージ


執事会でも、いろんな会議でも、僕は何でもまずやってみようと思うタイプです。せっかちで、すぐに動きたいし、あまり深く考えてない時もよくあります。会議で即答で「いいと思う、やろうやろう」というと、誰かがちゃんと「ちょっと待った」と言ってくれて、「聖書から考えよう」とか「立ち止まって祈って時間をかけて考えよう」と言ってくれる人がいます。ありがたいことです。そして、その通りに立ち止まって祈り、みことばを求めるときに軌道修正させられることも多いです。その場の雰囲気とか盛り上がりだけでは危険です。


その実例は今日の箇所です。ダビデもウザもあまり深く考えずに良かれと思って神様の言葉が入った箱を運んだ結果、神様から強制的にストップさせられました。しかも、ウザは神様の怒りに触れて殺された箇所です。ダビデは恐れ、立ち止まり、自分のやり方を振り返ります。そして、神様に対する態度と神様の箱に対する態度が間違っていたことに気が付きます。


便利な方法や効率の良い方法は悪じゃないけど、でもその中に神様より人間のやり方を上にする傲慢さがある可能性があります。神様より効率とかタイパを優先する高ぶりがあるかもしれません。神様の願いではなく自分のやり方で神様に仕えてあげる、奉仕してあげる、私はいいことをしている、という傲慢さに気が付かないままでいることもあり得ます。


ある人はコロナの時ズームで礼拝していたそうです。オンライン礼拝でした。

だんだんそれが慣れてきてズームだとカメラをオフにして、ご飯食べながらゴロゴロしながら音だけ聴くようになり、ラクなのでどんどん礼拝を軽く見るようになったそうです。賛美や感謝を捧げることも無くなって、一応繋いでいるだけになったそうです。そのうち、つまらないとチャンネルを変えるように、他の教会の中継を試して、まるでネットで買い物でもするように、気に入った礼拝中継を選ぶようになったそうです。


ある時、自分のやってることが、神様に対してすごく侮辱的なことをしていることが突然示されて、それからはオンラインをやめたそうです。神様を礼拝するのではく、自分が上に立って神様を下にしていることがわかったからです。という話を聞きました。


礼拝はもともと平伏す、という意味です。神様の前に自分を明け渡し献身する、という意味があるのが礼拝です。その人はそれから対面で礼拝することにしたそうです。悔い改めました。兄弟姉妹と顔を合わせて声を合わせて神様に感謝し、心を合わせて一緒に祈り賛美ことを大切にするようになったと言う話を聞いたことがあります。


ダビデは、いつもは行動する前に最初に神様にまず聞く人です。でも、この時は神様に聞きませんでした。その結果、神様の怒りに触れて、ウザは殺されます。

神様の契約の箱を自分の住むエルサレムに移すのはいいことです。ですが、いつも書いてある、「主に伺った」がありません。その結果、計画は中断させられます。


●時代背景とあらすじ


ダビデはいよいよ全イスラエルの王になります。全ての人たちが自分に従うようになった、その直後です。いちばんいい時です。全ての国民がダビデのところに来て、ダビデを王様として認めます。


(5章10節)

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。


この頃のペリシテ人との戦いも、いつも勝利していきます。「自分は神様と一緒にいる。自分は油注がれた王様である。神様に祝福されている」という絶好調な時期です。

でも、そのような時に、神様を恐れることや神様に伺うことを忘れてしまっていたようです。ダビデは神様に伺うことなしに自分の宮殿があるエルサレムに神の箱を持ってこようと決めます。それは神様をエルサレムにお迎えするのとほとんど同じ意味がありました。


(1節-3節)

1,ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。

2,ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上げようとして、自分とともにいたすべての兵と一緒に出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名でその名を呼ばれている。

3,彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。


精鋭三万、とあります。洞窟で隠れて逃げていた時にはダビデに従ってきた人は600人でした。しかも彼らは不満のあるもの、困窮者たちでした。。(1サムエル22章2節)でも、今は軍のエリートだけでも3万人です。全国民がダビデに従うようになっていました。


ダビデは王様になり、エルサレムに自分の宮殿を立てました。そして、神の箱をお迎えすることにしました。新しい荷車を作り、それに乗せて運び、大きなパレードをして、賛美して、喜び歌いながら運びました。


(4-5節)

4,それを、丘の上にあるアビナダブの家から神の箱とともに移したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。

5,ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、主の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。


素晴らしいパレードだし、心から喜んでいたのは事実です。でも神様は強制的にそれをやめさせます。

途中で牛がよろめき、箱が落ちそうになって箱に触れたウザが神様に殺された、という話です。


(6-8)

6,彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。

7,すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。

8,ダビデの心は激した。主がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツ・ウザと呼ばれている。


神様は厳しすぎでしょうか?


1 人が箱に触れることは禁じられており、死の刑罰を受けると言われていました。

2 神様はウザとダビデが聖なる恐れを失っていることを見抜いていました。

3 ダビデは後で、箱が車で運ばれたことが問題であったと認めました(1歴代誌15:13)。

4 神様はイスラエルの民に、神様の聖さを再認識させようとしました。


●神様への聖なる恐れの欠如と悔い改め


神の箱と言うのは、神様ご自身のご臨在そのものです。中身は神様から与えられた神様のことばが刻まれた石の板が入っています。その箱があるところはまさに神様、ご自身がおられる場所です


(2節後半)

神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名でその名を呼ばれている。


ケルビムというのは、金で作られた神様の使いの存在です。箱の上にはケルビムが翼を広げてその箱を覆っていました。この箱の上から神様は人に語りかけ、人は神様の言葉を聞くことができました。この箱がある場所は神様がそこにおられる、聖なる臨在がありました。


最初この箱を作るように命じられたとき、箱は会見の天幕の一番奥の至聖所というところに置くように言われます。そして、人がそこに近づいて死ぬことがないように、仕切りの幕を作りなさい、とも言われていました。この神の箱に近づくことは聖なる神様に近づくことを意味していました。だから、神様は人が死なないように、この箱に近づくときは必ず捧げものの動物の血を携えて近づく必要がありました。近づくことができるのは祭司だけです。祭司とは人々の代表です。祭司も罪があるので、まず、自分の罪を告白して、赦しをいただいて、神様の裁きを身代わりに受ける動物を殺して、その血を持って近づく必要がありました。


本来人間は聖なる神様に近づけないし、罪があるままで近づくなら死んでしまうことをこの聖なる箱は表しています。ところが、このときはダビデもウザも聖なる恐れを忘れていたようです。


過去には箱が町に来ただけで多くの人が死んだことが何度もありました。ある時、ペリシテ人にこの神様の箱が奪われました、そうするのと、その町の人たちがみんな神様によって腫物で打たれたと書いてあります。それで次々と人が死んでいきました。


(サムエル記 第一 5章6節)

主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。


この神様を敬わないペリシテ人の町にこの箱が行くところ行くところ、その町の人たちが次々と神様に殺されていくことがありました。人々はすごく恐れました。


(サムエル記 第一 5章9~10節)

それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。

ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」


それで人々はこの箱は、単なる箱ではなくて、神様がご臨在される恐るべき箱だということがわかったんです。ペリシテ人はこの箱を恐れて、イスラエルに送り返されてきました。


最初返されたのはベテシェメシュという町です。でも、そこでも人々は殺されます。神様を恐れることなくその箱をのぞいたからです。


(1サムエル6章19-20節)

19,主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

20,ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」


この箱に近づくことは神様に近づくことでした。

次にこの神様の箱を預かったのが、アビナダブと言う人です。今日、神様の怒りによって殺されたウザという人のお父さんがこのアビナダブです。つまり、ウザは神様の箱を預かっている家で育った人です。子どもの頃からずっと家にあったようです。


●ウザとアフヨの慣れ。


(3節)

彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。


この家に20年以上箱があったことは、1サムエル7章に書かれています。


(1サムエル7章1~2節)

キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。(…中略…)箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。


今日殺されたウザは子供の時から、自分の家に神の箱がありました。


聖書に書いてないけども、最初、我が家にこの神の箱が来たときは家族中が恐れました。この箱によって多くの人々が次々と死んでいったことを聞いていました。のぞいた人も、その町の人々も死にました。それを預かったのがアビナダブです。その家で育ったのがウザとアフヨです。


だから、アフヨも、ウザも子供のころお父さんから厳しく言われたはずです。「いいか、お前たち、この神の箱には絶対に近づくな、見るな。ペリシテ人たちは町中がこの箱によって殺されたんだぞ、絶対に触れてはいけない。」そうやって育ったはずです。それがウザとアフヨです。


ところが、最初は恐れ敬った神様の箱ですが、20年以上、家にあったら慣れてきます。

ボール遊びしてたら、コロコロコロって言って、神の箱の入ったある部屋とか倉庫とかぶつかったことがあったかもしれません。最初はドキドキしたけど、別に不幸なことも起きないし「意外と大丈夫じゃない?」と慣れてきたかもしれません。


分かりませんが、とにかく20年以上かかってこの2人は昔ほど恐れはなくなり慣れました。だから牛がよろけたら、箱を手でおさえようとします。


そういえば、ペリシテ人たちがイスラエルのこの箱を返してきた時も、牛車に乗せて運ばれてきました。彼らは神様の教えを律法を調べることもせず、自分の経験だけで判断しています。あの時こうだったから、今回もこうだ、という判断です。


ダビデも、それに何の疑問もなかったみたいです

本当に神様を喜んでいたし、礼拝していたし、賛美していたし、心からみんなで喜び歌ってこの車、カートに乗せてエルサレムまで行こうとしました。


兵士が30,000人いました。

そして元気なバンド、今で言ったらマーチングバンドのような楽団で、神様を賛美する歌がありました。みんな喜び踊ってその箱を囲んでパレードをしました


(5)

ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、主の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。


ダビデには勢いがありました。


●神様の怒りによる強制終了


そんな彼らに、神様は怒りを発せられます。


(6節から7節)

彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。

すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。


牛がよろめきました。大きな石があったのかどうかわかりません。牛がよろめき、神の箱も揺れました。

ウザは子どもの頃から我が家あった箱ですから慣れてます。触れてはいけないと言う律法は忘れていました。箱に手を伸ばして掴みました。


神様の怒りによってウザはその場で殺されました。盛り上げていた楽団の音は消えました。水を打ったようにそのパレードは静かになり、喜びは一転して緊張と恐れに変わりました。


(8節から10節)

ダビデの心は激した。主がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツ・ウザと呼ばれている。

その日、ダビデは主を恐れて言った。「どうして、主の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」

ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。


ダビデは動揺しました。恐れました。とてもこの箱はエルサレムにはお迎えできないと思ったようです。そして「ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。」とあります。


ガテ人オベデ・エドムの家、どんな人か書いていませんが、箱を預かるのは嫌だったし逃げ出したかったと思います。この箱がいくところ、必ず人が殺される、最近もウザが殺された、そのような聖なる箱です。嫌だったと思います。これは死ぬかもしれない役目です。緊張します。でも、王様の命令です。ダビデがその家に回したと書いてあります。

どうなったか?なんと彼の家は祝福されたと書いてあります。


(11)

主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。


問題は、神様を恐れず、そのみことばに従わず、神様にやり方に従わないことでした。神様を恐れ敬わないことが問題でした。ダビデはその三ヶ月でそれを知ったようです。その三ヶ月で検証したと思います。ダビデは御言葉に立ち返りました。自分のやり方は神様の御言葉を無視していたことを知りました。


1 人が箱に触れることは禁じられており、死の刑罰を受けると言われていました。

2 神様はウザとダビデが聖なる恐れを失っていることを見抜いていました。

3 ダビデは後で、箱が車で運ばれたことが問題であったと認めました(1歴代誌15:13)。

4 神様はイスラエルの民に、神様の聖さを再認識させようとしました。


●ダビデの悔い改めとやり直し。


「神の箱」を移動するときにはそれを覆って、そして神様に選ばれた祭司のうち、レビ人のケハテ族だけがそれを担ぐようにと定められています。(出エジプト25章、民数記4章)


神様の箱に汚れたままの人が触れると死んでしまいます。だから祭司はまず罪を告白し、自分の罪に対する身代わりの動物を殺し、捧げものをして、それからこの契約の箱を担ぐように律法で決められていまい人たた。ダビデはウザが神様に殺されたことで、もう一度神様に戻ります。3か月の間に律法を調べたようです。そして、やり方を神様の教えの通りに変えます。祭司を集めて言います。


(1歴代誌15.13-15)

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」そこで、祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱を運び上るために身を聖別した。そして、レビ族は、モーセが主のことばに従って命じたとおり、神の箱をにない棒で肩にかついだ。


ダビデは悔い改めました。自分の感覚でも効率でもなく、み言葉に従って、この契約の箱を運ぶことにしました。彼は主を恐れて神様に従うことを選びました。


(13節から15節)

13,主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。

14,ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

15,ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。


聖なる神様にそのままでは近づくことはできません。いくら豪華パレードをしても、悔いあらためて聖なるものとされなければ、罪の赦しがなければ受け入れられることはありません。

ダビデはそれを知りました。祭司は罪を認め、告白し、そのための犠牲のいけにえを捧げ、赦されて初めて神様に近づき、その箱を棒で担ぐことができました。

ダビデもまた、何度も罪のためのいけにえを捧げました。


今度は神様に打たれる事はありませんでした。

御言葉に従い、その進め方は非常に遅いけど、6歩進んだらいけにえですから、何日もかかったかもしれません。ダビデは効率ではなく神様に従うことが中心になりました。


ウザが死ぬことによって、ダビデは神様が聖なる方であることを改めて知りました。そしてその方をお迎えするには、自分もきよめられ、赦される必要があることを知りました。きよめられることは、神様の教えに完全に献身することです。


特にうまくいってる時、調子になってる時は要注意です。試練を通して神様が教えてくださることたくさんあります。それは僕らがもう一回神様の御言葉に聞き、神様に戻るためです。


皆さんにとって、今ストップさせられていることは何でしょうか。もう一度神様の御言葉に戻るように立ち止まってよく考えるように言われていることあるでしょうか。


ダビデはウザが死ぬことによって、もう一度み言葉を学び直しました。そしてやり直しました。

今度は自分のノリや勢いで賛美していたのではありません。神様の怒りを過ぎ越すためには、いけにえが必要なことを学びました。


(13)

主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。


ダビデは神様への恐れと同時に、受け入れられることの喜びと感謝もありました。ダビデは感謝し喜び歌い、踊りました。その箱が無事にエルサレムの天幕の真ん中に置かれた時、ダビデは神様を礼拝し、人々を祝福しました。悔い改めて神様のことば従うことは、国中の祝福となりました。


(17節から19節)

17,人々は主の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは主の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。

18,ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の主の御名によって民を祝福した。

19,そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。


●悔い改めないミカルへの裁き


ダビデの妻ミカルはダビデが苦しみ、畏れ、悔い改めてもう一度やり直したことを見ていたはずです。

ダビデは自分の栄光や自分のやり方を手放し、もう一度神様の前にへり下って、神様の定められたやり方に戻りました。一方、ミカルが最後まで握りしめたのは自分のメンツ、夫の栄光、王様はこうあるべき、という自分の考えでした。


(16)

主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。


なぜ心の中で蔑んだのか、彼女は言います。


(20)

ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」


ミカルはサウルの娘です。サウルは最後まで自分の栄光やメンツを大事にした人です。人からよく思われることを優先し、他人が褒められると妬み憎みました。最後までそうでした。

そしてその娘ミカルも同じです。悔い改めてへり降るよりも、王様とは威厳があるべき、こうあるべき、を優先します。飛んだり跳ねたりして恥ずかしい、と見下します。


ミカルには神様への恐れよりも、人からよく見られ、王様としての威厳を保つことの方が重要でした。

いくらウザが殺されても、彼女は父から受け継いだ高ぶりを認めて悔い改めることはありませんでした。親から言われた、王様はこうあるべき、と言う価値観を握りしめていました。


ダビデは言います。


(21-23)

21,ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。

22,私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」

23,サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。


私たちにも問われています。

神様よりも、こうあるべき、と思い込んでいることはあるでしょうか。親から言われたことをなんの疑問もなく、その高ぶりや頑固さを受け継いでしまってることはあるでしょうか。

この夫婦はうまくいかなくなりました。


神様は父と母を離れて2人は一体となるとおっしゃいます。父と母を離れるのは大事です。親から受け継いだ、歪んだ価値観は手放すべきです。ミカルはダビデと一体になれませんでした。それは王様だったお父さんの過去の栄光、お父さんの教え、お父さんの生き方が彼女を支配し、それを手放すことがなかったからです。みなさんが知らず知らずに支配されている考えはあるでしょうか?

それは神様の言葉ではなく、罪のある、親から受け継いでしまっているものがあるでしょうか。


ダビデは悔い改めて、自分を捨てて、裸になって神様に従い、賛美し、踊りました。人からどう思われるかよりも、上級国民に気に入られるより、神さまに喜ばれたい、そして、弱い人、苦しむ人に仕えたいと言います。


(21-22)

「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。

22,私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」


結婚した二人が一致できるのは、自分を捨てて神様に献身するからです。親から受け継いだ罪とか生活スタイルとか考え方に支配され縛られるのではなく、自分を捨てて、神様に献身するから、二人は一体となれるのです。


自分を捨てなければ、親から受け継いだ罪に支配されるなら、2人は一つにはなれません、ダビデとミカルは一つになれなかったようだし、仲良くできなかったようです。ミカルは妊娠することがありませんでした。これは、夫婦関係が冷え切っていたのか、それとも神様の裁きなのか分かりません。両方かもしれません。


●まとめ


罪の結果は死です。罪があるままで悔い改めなしに聖なる神様に近づくことはできません。

ウザは殺されました。ミカルとダビデの夫婦関係は冷え切っていきました。


みなさんが今強制的に止められていること、うまくいかないことの中に、悔い改めるべき罪や高ぶりはあるでしょうか。神様よりも自分の考えとか、メンツとか、やり方とか親から受け継いでしまったよくないものがあるでしょうか。


聖なる神様に近づく人は殺されました。

僕らが神様に受け入れられる理由はただ一つ、イエス様が十字架でその怒りを受け、呪いを受け、血を流してくださったからです。


これから聖餐をします。罪がある私たちをきよくしてくださるのは、イエス様の十字架だけです。

イエス様が自分を捨てて屠られた、殺された子羊として、生贄になってくださったからです。


ダビデは六歩進むたびにいけにえを捧げました。

僕らはいけにえを捧げる必要はありません。最後のいけにえ、完全な生贄としてイエス様がご自分を十字架の上で、捧げてくださったからです。


僕らの生贄は悔い改めて、イエス様の赦しを信じ受け入れることです。

自分のやり方を手放して、神様のことばに献身することです。


イエス様の恵みを思い出し感謝するために聖餐をしましょう。

祈りましょう。手放すべき高ぶりを手放しましょう。


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