2025年10月9日木曜日

エレミヤ15.10-21

 エレミヤ15.10-21


牧師とか宣教師を職業だと思っている人は続かないと思います。教会で仕事すれば生活できる保証はないし、みことばをそのまま教えたり伝えたりすると、この世の人たちから嫌われ批判されるからです。人に嫌われないように聖書の話にイイ感じの話を足したり、神の裁きの話をしないようにするなら、もう神様の働きではありません。預言者エレミヤは神様のみことばをそのまま伝えました。その結果、周りの人たちから呪われ、嫌われ、彼はそれを嘆きます。まるで自分は世界から呪われるために産まれたみたいだ、と。



"ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。"

エレミヤ書 15章10節



"主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。(…中略…)なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。"

エレミヤ書 15章15-18節



神様のことばをその伝えることは霊的な働きだし戦いです。なのでマニュアル通りとか原稿を作ればOKとか、ネットに載ってる説教をDLすればいいものではありません。神様のことばを伝える人は、まずは自分の心と神様の心が一つになることが必要です。食べ物が人間の体を作るのと同じように、神様のみことばがその人の霊的な人格をつくります。エレミヤはまずは食べ物のように自分の心にみことばを受け入れ、それが自分自身となるように、神様の心が自分の心になるようにしました。それは彼の喜びでした。



"私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。"

エレミヤ書 15章16節



このように神様のみことばは食べて自分自身となっていくものです。距離を置いて読むものではないし、勉強したり分析するものでもありません。食べて自分自身となり、神様の心と自分の心が一つになっていきます。

イエス様がこの世に来てみことばを教えた時、人々は拒絶し、嫌い、あざけり、殺しました。同じように、イエス様のみことばを食べて交わり1つになる人が語る時、この世から同じように嫌われます。でも、それはイエス様からご覧になると喜びです。なぜなら一つになってるしるしだからです。だからイエス様は迫害され攻撃されたら「喜びなさい。大いに喜びなさい。」「あなたがたの報いは大きい」とおっしゃいます。



"わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章11~12節



人々から迫害され攻撃されるエレミヤに神様はおっしゃいます。


"もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。(…中略…)この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。──主のことば──わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。"

エレミヤ書 15章19-21節



まずは神様と交わり、余計なことばを捨てて、神様のことばを求めていくなら、神様は必ず救い助け出してくださいます。「彼らは、あなたと戦っても勝てない。」とおっしゃいます。


僕らの人生は人に気に入られるためのものではなく、神様に喜ばれ祝福されるためのものです。みことばを語る人はイエス様と交わり一体化する人です。聖書はお勉強するものではなく食べるものです。みことばを語ることは仕事ではなく、神様ご自身の働きの現れです。嫌われたり攻撃されることもあります。でも、それがイエス様と一緒のしるしなら、イエス様のための迫害なら喜ばれてます。大丈夫です!

0 件のコメント:

コメントを投稿