2025年10月2日木曜日

エレミヤ8.18-9.1

 エレミヤ8.18-9.1


老人を殴り殺して金を奪った若者が死刑になっても、薬物やアルコール漬けになって人が死んでも、僕らは「当然だ、仕方ない」と思って悲しんだり泣いたりすることはありません。

でもイエス様は違います。罪をはっきりと指摘しつつ、同時に罪人を愛し、その悲惨さを自分ごととして悲しみ、嘆いてくださる方です。泣いてくださるだけでなくその裁きと神の怒りを身代わりに引き受け、呪われ、捨てられる側にさえなってくださる方です。正義を振りかざすだけが良いことではありません。罪を罪として指摘しつつ、罪人側のことを思い、自分のことのように泣き、苦しんで下さる方です。そして、それは預言者エレミヤも同じです。悔い改めずに滅んでいくユダ王国は「娘である私の民」(8.21、9.1)です。愛する娘が苦しんで死んでいくことほど悲しいことはありません。



"私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。"

エレミヤ書 8章18節



"娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。

乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。"

エレミヤ書 8章21~22節



エレミヤが厳しく罪を指摘し続けるのは死んで欲しくないからです。苦しみながら滅んでいくのを放置できないからです。エレミヤは神様の裁きを預言しながら同時に彼らのことを思って嘆き悲しみます。



"ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。"

エレミヤ書 9章1節



罪人のために泣き、罪人と一緒に苦しむのはイエス様の姿です。イエス様も滅んでいくエルサレムを預言して泣きました。



"エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、

そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」"

ルカの福音書 19章41~44節



パウロも同じです。人の滅びを思って、泣きながら手紙を書いています。



"というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。"

ピリピ人への手紙 3章18~19節



僕らに足りないのは憐れみです。神様に裁かれ死んでいく人たちを愛し、憐れみ、悲しむ心です。正しさを示すことも大事ですが、同時にその痛みや苦しみに共感して、一緒に祈り続けることはもっと大事です。神様は人が滅んでいくことを喜ぶ方ではありません。愛する家族のためなら泣けるかもしれないし、良い人のためなら泣けるかもしれません。でも、卑劣なことをし、魅力がない罪人のために泣くことができるか、自問してみる必要があります。

イエス様は信仰深い人のためでなく、良い人のためでもなく、不敬虔な、卑劣な、醜い人を愛し、彼らのために命を捨ててくださる方だからです。



"実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。"

ローマ人への手紙 5章6~8節


メッセージをする人に必要なのは上から目線ではありません。罪を指摘して論破することだけではありません。滅んでいく人への愛です。罪とその結果への悲しみです。神様、求めます。どうぞ御霊の愛を、憐れみを、泣く人と一緒に泣くイエス様の心を与えてください。

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