神様を知ると神様と似てきます。子どもが親に似たり、仲の良い友達通しが同じような言葉遣いや生活をするのと似ています。「知る」とは交わりです。そのように、神様を信頼し親しくする人は必ず周りの人との関係に愛と尊敬が現れます。それが神様の心だからです。
ヨシヤという王様は祝福されました。それは神様が弱い人たちの味方だったように、彼も同じようにしたからです。
(15-16節)
あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。
虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──主のことば
神様を関係を持つ人は、必ず周りの人への尊敬と敬意が出てきます。逆に、ヨシヤの息子のシャルムは自分の利得だけを求め、他人の苦しみには関心がありませんでした。むしろ彼らから搾取して資金にします。それが神様を知らなかった証拠です。聖書は言います。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:10)その通りに、彼は不幸になります。
(11-15節)
父ヨシヤに代わって王となった、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう言われる。「彼はこの場所から出て行って、二度とここには帰らない。彼は引いて行かれた場所で死に、再びこの地を見ることはない。」
「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、
『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。
あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。
(17-19節)
しかし、あなたの目と心は、自分の利得に、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことにだけ向けられている。」
それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう言われる。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。
彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」
神様との生活は僕らを愛の行いへ導いてくれます。周りの人への愛と尊敬がちゃんと表に出ます。もし、困っている隣人に心を閉ざすなら、その人には神様がとどまっているとは言えません。
"この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。"
ヨハネの手紙 第一 3章17節
神様とつながり、赦され、愛されたことは行動でわかります。神様が愛している隣人を、弱い人を、困っている人を愛し、大事にしようと思うことは神様とつながっている証拠です。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」(ヨハネの手紙 第一3章14節)今日も僕らの時間の使い方、お金の使い方、力の使い方が神様の願い通りになりますように。
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