2024年7月2日火曜日

1サムエル15.1-23

1サムエル15.1-23


 「聖絶」とは、神様に完全にささげ、完全に滅ぼし尽くすことを意味します。また神様の裁きの意味もあります。神様が嫌われるものを徹底して消し去ることです。神様はサウル王にアマネクに対して聖絶するように命令されました。



(1から3節)

1,サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。

2,万軍の主はこう言われる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを覚えている。

3,今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。』」



この世でどんなに価値があるものでも、神様が嫌い消し去るものはそのようにする必要がありました。ところが、サウルも兵士たちもそう思わなかったようです。神様の考えは脇に置いて、実際には自分の判断で残すものを分けました。結局「つまらない値打ちのないものだけを聖絶した」とあります。そして、「良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。」とあります。(9)



(7節から9節)

7,サウルは、ハビラからエジプトの国境にあるシュルに至るまで、アマレク人を討ち、

8,アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。

9,サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。



神様にとっては全ては滅ぼすべきものでした。逆にサウルはもったいないと思い惜しみました。神様よりも自分の判断で神様の命令を変えてしまうことを、神様は非常に悲しみ、サウルを王様にしたことを悔やむとおっしゃいます。しかも、サウルは自分がアマレクを滅ぼしたと自慢げに「記念碑」をたてました。(12)これらのことは神様にとってもサムエルにとっても悲しみと怒りをもたらすものでした。



(10節から11節)

10,主のことばがサムエルに臨んだ。

11,「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。

12,翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。



しかも、サウルは「私は主のことばを守りました。」と言います。(13)不従順を指摘されると、兵士のせいにし、しかも、主にささげるためだった、と言い訳します。



(14節から15節)

14,サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

15,サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」



僕らもサウルと同じく神様よりも自分の判断を優先しがちです。神様が嫌うものを密かに好み、自分のためにとっておくのが現実です。しかも上手に言い訳し「神様のために」とさえ言いがちです。僕らは「私は主の御声に聞き従いました」と言いたいものです。(20)



(19-21節)

19,なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」

20,サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。

21,兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」



密かに目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を隠し持ち、罪を人のせいにするその姿は、私たちにそのものです。神様の願いはシンプルです。僕らが自分ではなく主に従うことです。



(22節-23節)

22,サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

23,従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」



今日、自分を調べてみましょう。神様が捨てようと思っているものを惜しんで隠し持っていないか、それを正当化していないか、そして他の人のせいにしていないかと。たとえ全世界を手に入れても神様の悲しみと怒りをもたらすなら何もなりません。(マタイ16.26)














2024年7月1日月曜日

1サムエル14.36-46

 1サムエル14.36-46


聖書は僕らに謙遜であるように教えます。しかも、聖書が教える謙遜さは僕らが思うレベルではなく、自分を死んだ者と思って完全に明け渡すことです。イエス様はおっしゃいます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイの福音書16章24~25節)この実例がヨナタンです。普通、僕らは自分を生かそうとするし、自分を守ろうとします。でも、ヨナタンは逆です。そしてイエス様は真逆です。自分を捨てて十字架の処刑まで従い、そのようにして僕ら愛してくださいました。


ヨナタンは神様に対して全幅の信頼を置いていたし、神様に自分の命を預けていました。強い軍隊にたった2人で乗り込んで行って勝利します。(14.6)神様に自分を明け渡すことは、彼が地上の権威者に対しても自分を捨てて服従する態度に表れています。聖書は基本的に地上の権力者に従うように教えています。たとえそれが変な権力者であっても、です。



(ペテロの手紙 第一 2章13~16)

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、

あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。



ヨナタンにとっての地上の権威者は王様であり父であるサウルでした。そして、サウルの命令は間違ってる不本意なものでした。(29節) それでもヨナタンは父の命令に従います。自分を捨てて神様に全てを預ける事は、地上の権威者に従うこととつながっていました。王はこの戦いに勝利するまで何も食べてはならない、と命令していましたが、ヨナタンはそれを知らずに蜜を食べました。



(27-28)

しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。

兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」



王はヨナタンに死刑を宣告します。



(43-44)

サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に話しなさい。」ヨナタンは彼に話した。「確かに、手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を口にしました。この私が死ななければなりません。」

サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン、おまえは必ず死ななければならない。」



王様の考えは自分と違ったし、ヨナタンはその命令を知りませんでした。それでも、彼は自分を捨てて従います。神様に自分を明け渡すことと王様に自分を明け渡すことは、ヨナタンにとっては同じでした。彼は自分を捨てて「この私が死ななければなりません。」と言います。(43)


自分を捨てることは、それで終わりにはなりません。

イエス様は言われます。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16.25)イエス様はこの通りに十字架の処刑に従って自分を捨てましたが、復活され、全ての栄光と権威を持っておられます。僕らも自分を捨てて明け渡すことは、惨めな死で終わりません。神様に喜ばれ、神様から高くあげられます。聖書は「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」と言います。(1ペテロ5.6)


ヨナタンは自分を捨てて父である王サウルに従いました。でもそれで終わりません。民は王に反論してヨナタンを救います。


(45節)

民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。


自分を捨てることは、それで終わりにはなりません。神様がちょうど良い時に高く上げてくださいます。今日も互いに相手を自分より優れた人と思って従いましょう。(ピリピ2.3)自分を捨てて神様を愛し、人を愛する時に、それで終わることはありません。ハレルヤ!







2024年6月30日日曜日

1サムエル14.1-30

1サムエル14.1-30


 神様は何度も「恐れてはならない」「心配してはならない」とおっしゃいます。その理由は神様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)だから僕らは確信を持って「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」と言うことができます。ヨナタンはこの確信があるので、恐れることなく敵陣にたった2人だけで乗り込んで行きました。



(6節)

ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」



反対に、恐れに駆り立て、ビクビクして判断し動くその結果は悲惨です。「コワイから動く」ことは変な行動を生み出します。冷静に考えるならばペリシテ人の方が優勢なのですが、神様は「恐れ」を使って敵を攻撃します。彼らは恐れたゆえに同志打ちを始めて自滅します。



(15節)

そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。


(20節)

サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。



反対に、神様が一緒にいてくださり、勝利させてくださる確信は自由と力を生み出します。ビクビクしている人よりも安心している人のパフォーマンスの方が遥かに優れています。今までペリシテ人を恐れてペリシテ人側についていた兵士たちも、怖くて山地に隠れていたすべてのイスラエル人もペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わりました。神様が一緒にいてくださり勝利させてくださることは夢とか言い聞かせることではなく、霊的な現実です。



(21-23節)

それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。

また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。

その日、主はイスラエルを救われた。



神様が勝利を与えて下さったのですが、イスラエルの兵士たちはサウル王の言葉を恐れていました。恐れは変な行動を生みます。



(24-26節)

さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。

兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。



ヨナタンは自由でした。彼が恐れるのはただ一人だけ、神様だけです。僕らもヨナタンと同じように、神様以外を恐れる必要はありません。


(29-30)

29,ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。

30,もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」



イエス様は「真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃいます。(ヨハネ8.32)キリストが一緒にいてくださることの喜びと自由は、このヨナタンのように、主に喜ばれることを確信して行うことができるという自由です。僕らにも同じように自由が与えられています。今日も人を恐れず、状況を恐れず、ただ、神様だけを恐れ、聞き、従いましょう。そこには自由があり、喜びがあり、愛があり、勝利があります。神様は何度も「恐れてはならない」「心配してはならない」とおっしゃいます。その理由は神様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)ハレルヤ!

2024年6月28日金曜日

1サムエル13章

 1サムエル13章


困った時、僕らは慌てて自分なりに考えて判断します。神様を味方につけようとしてあれこれやってみたりします。「神様、こんなに献金したから助けて下さいよ」とか「見て下さいよ、祈ったし、奉仕もしましたよ、助けて下さいよ。」本音は「神様、ちゃんと働いて助けて下さいよ。こっちもこうしたんだから」神様をコントロールしたい気持ちです。神様と自分の上下が逆転しています。神様はお手伝いさんではありません。神様の願いは、僕らが神様のことばを聞き、それを自分の心として神様と一つになっていくことです。



(15章22節)

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。



サウルは敵に囲まれて困り果てました。兵士たちはどんどん逃げて行きます。(5-8)この時にすべきことは、実はもう預言者サムエルを通して告げられていました。



(10章8節)

私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」



しかし、サムエルは待っても来ません。状況は悪くなるばかりで、兵士たちは怯えて去っていきます。困ったサウルは自分で神様にささげものをささげてお願いしてみよう、と思いました。



(9節から10節)

サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。

彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。



自分で良かれと思った判断です。でも、預言者サムエルから言われたこととは違いました。サムエルは、それを厳しく糾弾します。



(13節から14節)

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」



相手に対して自分が思う「良いこと」をすれば認めてくれる、と思いがちです。でも、それが相手にとって良くはなかったし、違った、というのはよくある話です。同じように神様が求めておられるのは、「ご自分の心にかなう人」(14)です。大事なのは、神様のことばを聞いて、それを自分の心としていくことです。神様とひとつの心になっていくために必要なのは耳です。まず聞くことです。そして、聞いたことを、自分の心にすることです。「耳と心」は愛する方法です。耳と心を神様にささげることは礼拝であり、神様にとっての喜びです。


人間関係も同じです。ドヤ顔で「私はこんなことした」というよりも、相手に耳と心をささげて聞き、相手の心に寄り添っていくことが愛です。王様として一番大事なことは、神様の言葉を聞いてそれを自分の心にしていくことでした。神様を動かそうとしてあれこれ動くよりも、まず聞いて、思い巡らし、それを自分の心にすることです。


状況が悪い時、危機的な時、まずは神様のところに行って聞きましょう。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15.22)神様の願いは僕らが神様の心と一つになることです。ハレルヤ!








You rise me up 初めてガラスのピラミッドで

 ガラスのピラミッドの近くに30年近くも住んでいて、初めてそこで演奏してみました。長尾悟さんが撮影してくれて光栄でした。


梅川涼くんのアルバムに参加させてもらえて光栄です!

 梅川涼くんのアルバムに参加させてもらえて光栄です!声もアレンジも素敵です。




1サムエル12章

 1サムエル12章


人の知恵とか政治形態とかが全部悪いわけじゃないけど、もし神様を忘れて人の力で救われようとするならそれは罪だと聖書ははっきり伝えます。僕らは人間の力を求めすぎ、人の言葉を求めすぎのようです。神様に祈り求めもしない解決策は「役にも立たず、救い出すこともできない、空しいもの」とサムエルは断言します。



(21節)

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。



この時、イスラエルは神様に祈りもせずによその国の真似をして力のある王様を求めて言いました。「どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(8.19-20)神様を忘れて、祈りもなしに王様を求めることは罪であり悪であるとサムエルは指摘します。



(12節)

しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。



どんな小さなこともまずは神様に聞き、従うことが優先です。神様にホウレンソウです。先に人を求めるなら間違いであり罪だと聖書は繰り返します。主に祈ることと、世の力や人の知恵を求める事は正反対のように聖書は伝えています。主は祈りに答えてくださる方です。それをハッキリさせるために、サムエルは神様に雨と雷を求めました。しかもこの時期、小麦の刈り入れ時期は雨が降らないそうです。それでも、サムエルは主を求めて祈り求めました。神様により頼むことがどんなに大切なことかを人々に教えるためです。



(16-18節)

16,今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。

17,今は小麦の刈り入れ時ではないか。主が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。」

18,そしてサムエルは主を呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨を下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。



降らない時期であっても主に求めるなら雨を与える神様を体験し、彼らは主を恐れました。主に祈り求めることの大切さを知ると同時に主を後回しにして王を求めてきた罪を知らされました。



(19節から21節)

19,民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」

20,サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

21,役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。



サムエル自身にとっても、祈りを優先するのは何よりも大切な事です。祈らないのは罪です。



(23節から25節)

23,私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。

24,ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。

25,あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」



僕らは人間の力を求めすぎ、人の言葉を求めすぎのようです。まずは神様に求め、祈り、聞きましょう。祈るのをやめて、主の前に罪あるものとなることなど、とてもできません。

今日も、まず祈りましょう。絶えず祈りましょう。主こそ力ある王様です。ハレルヤ!



(ローマ12:12)絶えず祈りに励みなさい。

(エペソ6:18)すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

(エペソ1:16)あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

(コロサイ1:9)絶えずあなたがたのために祈り求めています。

(1テサ5:17)絶えず祈りなさい。

(ヘブル13:15)御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。