僕はリバーワーシップスクールで教える機会を与えられてすごく神様に感謝しています。また受講してくださった皆さんにも感謝しています。やっぱり楽しいです。まずは僕自身がシンセサイザー好きなんだな、と改めて思います。自分が楽しいので伝えたい、って気持ちがあります。
シンセの好きなところは、やっぱりいろんな音が出ることです。指揮者でもないのに、オーケストラの指揮者になったような気にさせてくれたり、最近のAIボーカルのシンセは僕は歌えなくても上手く歌える気にさせてくれます。
でも最近、神様から何を求めてるんですか?何にエネルギーを注いでいるのか?と問われた気がしています。豪華さ、クオリティーの高さですか?自分の楽しみですか?満足ですか?それとも主の栄光ですか?という問いです。実際、エネルギーをかけて気にしているのは主の素晴らしさではなくアレンジとか、音色とか、コード進行ですか?という問いです。
"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。"
イザヤ書 1章13節
リバーワーシップスクールの名前の通り、内側から溢れ出る命の川、御霊による感謝と喜びと平安によって与えられている礼拝ですか?それとも単に気持ちよく、いい思いするための音楽をですか?という問いです。
特にシンセサイザーはいろんなことができて楽しいです。この賜物を預けてくださって感謝って思いますけど、同時に神様を忘れさせる大きな誘惑でもあるといつも思います。
"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マルコの福音書 13章1~2節
イエス様は素晴らしい神殿、素晴らしい石に全く興味関心がなかったです。
またある時はこうも言います。
"ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。"
ルカの福音書 7章25節
人は美しく見えるものに憧れるけど、イエス様はそこが中心ではないようです。特に礼拝や祈りにおいては人に見せるためであってはならない、と厳しくおっしゃいます。(マタイ6.5)見せるために祈ったり何かをしたりする人を偽善者ども、と叱る方です。
「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。"
マルコの福音書 7章6節
まず内側をきよめなさい、とイエス様は何度もおっしゃいます。
「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。」というイザヤ書の「むなしい」という言葉は十戒の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト20.7)の「みだりに」と同じです。
形ばかりの豪華な音を出しても、クオリティーの高い賛美とか言って中身のないものを作っても、それは天では嫌われるものです。
神様の前にへりくだり、そのご臨在の前に圧倒され、跪くものでなければ、平伏して、自分を捨てて、自分の冠を捨てて捧げるものでなければ、それは虚しいものです。神様はその歌を聞きたくない、とさえおっしゃいます。
"あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。"
アモス書 5章23節
生きておられる主の栄光のご臨在の表れでなければ、聖なる主を表すものでなければ、単なる歌の騒ぎです。わたしは聞きたくない、と神様がおっしゃいます。
新しい技術が与えられるたびに問われます。それは何に使うのか、と。自分の虚栄心のためか、それともへりくだって主の栄光のために、自分を捨てて賛美するためか。
多く預かった人は多く求められます。このリバーを卒業した人は、ますます献身が求められます。ますます自分を捨ててへり下り、主の栄光だけを求めることが求められます。
皆さん、もう一回悔い改めましょう。高ぶりを認めましょう。もう一度自分を捨てましょう。自分を捨てた時に残るのは主の栄光、主のご臨在です。自分を捨て明け渡した時に、圧倒的な天からの喜び、栄光、主権が表されます。
この卒業式、もう一回跪いて自分を捨てましょう。主の栄光だけが表されますように。