2022年12月13日火曜日

エゼキエル10章

エゼキエル10章 この世界はますます暗くなり、おかしくなり、最終的には神様の裁きがあると聖書は言います。当時のエルサレムは神様が忌み嫌う偶像と淫行に満ちて行きました。ところが、預言者エゼキエルは暗い世界とは対照的に、神様がどんなに栄光に満ちているか、神様に仕えるケルビムさえ、言葉にできないほどの力と栄光に満ち溢れていることを伝えています。エゼキエルの時代の神殿には神様が確かに臨在され、そこには栄光の輝きがありました。…ですが、その神殿にさえ人は偶像を持ち込み、神様はそこを去って行きます。 (8章5-6) なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像があった。この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。 人間の歴史は、まるで自分から神様を追い出そうとする歴史のようです。エゼキエルは神殿に満ちていた神様の栄光が出て行く様子を伝えています。神様の栄光は敷居から出て行ったと書かれています。聖書は僕ら一人一人の体も、そして教会も神殿だと言います。(エペソ2.21、1コリ6.19)神様が嫌われるものをそこに放置するなら、自分から主の栄光を追い出すようなものです。 (18) 主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。 当時のエルサレムは狂って裁かれましたが、聖書は僕らの目を暗い世界ではなく天に向けるように、神様の偉大さを見上げるように伝えています。エゼキエルは4つの不思議な、そして圧倒的な力を持つ生き物を見ました。それはケルビムと呼ばれるもので、神様の栄光と聖さを表し、神様を讃めたたえる存在です。天の生き物は僕らは見たことがありません。霊的な存在を言葉で表現するのは難しいものです。まさに「絵にも書けない美しさ」ですが、当時の言葉をフル稼働してエゼキエルは霊的なケルビムを伝えています。 これは江戸時代の人にスマホの便利さと操作方法を説明するようなもので、限界があります。エゼキエルは人間の言葉を用いて霊的なことを説明し、僕らは想像しますが(エゼキエル10章をCGにした動画もたくさんありますが)、僕らが天に挙げられて本当にケルビムを生で見るときには「すごすぎる!想像と全然違った!」と思うでしょう。 (8-14) ケルビムの翼の下には人間の手の形があった。私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一方のケルビムのそばに、もう一つの輪はもう一方のケルビムのそばに、それぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。それらの形は四つとも同じで、一つの輪がもう一つの輪の中にあるようであった。それらが進むとき、それらは四方のどの方向にも進み、進むときには向きを変えなかった。なぜなら、頭が向かうところにほかの輪も従い、それらが進むときには向きを変えなかったからである。それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、周りに目がたくさん付いていた。私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれるのを聞いた。それぞれに四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。 ケルビムの存在は恐ろしいくらいに栄光と力に満ちています。彼らの存在は神様の栄光を表し、きよさを表し、神様に仕え、神様を讃めたたえる存在です。そんな偉大なケルビムですが、礼拝の対象にはなりません。彼らは「聖なるかな、聖なるかな!」と主をほめたたえています。(イザヤ6章、黙示録4章)しかも、僕らは将来もっとケルビムよりももっとすごいキリストの似姿に変えられることが約束されています。 世界は暗く、悲しいことだらけです。でも、天では神様の力と栄光が満ちています。まさに天と地では全然違います。人間の快楽の狂気がこの世界を覆っても、僕らは今日も目を天に上げましょう。主は今日も圧倒的な栄光を持っておられます。ハレルヤ!

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