ヨハネ 15.18−27
この世は神様が嫌いです。自分の思い通り、欲望の通りにしたいのがこの世の人たちです。僕もそうだったので良くわかります。神様より自分が正しいと思っています。一方、そんな僕らがイエス様と木と枝のように一体にされてしまいました。だから、イエス様が嫌われると僕らも嫌われます。木と枝は一つです。(ヨハネ15.4-5)
(19-20)
もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。
僕らは神様の子どもであり、神様のしもべであり、イエス様のからだの一部になりました。(20、ローマ8.14、1コリント12.28)一方でこの世は悪魔の支配下にあります。(エペソ2.2)『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』(25)とある通り、悪魔はイエス様と神様を嫌います。だから僕らも迫害や攻撃を受けるのは当然です。悪口を言われるのは神様の国のメンバーとなっている証拠です。
(マタイ5:10-12)
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
自分の罪のために苦しむのはダメです。(1ペテロ4.15-16)でも、イエス様とつながってるゆえに攻撃を受けるのは恥ではなく、報いがあり栄光があります。それは神様に喜ばれることです。
(1ペテロ 2:19-21)
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。(…中略…)善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
今日も十字架の上で罪人たちを忍耐されたイエス様も見上げましょう。
(へブル12:2-4)
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
今日もイエス様と一緒です。イエス様と一緒に苦しみ、イエス様と一緒に喜びましょう。ハレルヤ!
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